<自分らしさはマーケティング用語なのか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「自分らしさ」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆自分らしさとは誰が決めるのか
その人の特徴や願望をひっくるめて、何らかのイメージとしての「自分らしさ」があるとすると、その「自分らしさ」は誰が決めるのでしょう。自分?他人?
「自分らしいコーデ」の場合、自分の好み、あるいは自分の体型に合ている、ということができるので、自分で決めているといえそうです。
いっぽう「自分らしくないミス」においては、他人が決めるものでしょうか。この時の「自分らしさ」=「注意深い」すると、自分が決めていそうなものですが、「あなたらしくもないミス」という言い方もあるので、「他人が決める」こともできそうです。
「自分らしさというのは、コミュニケーションの中で生じるものなので、自分からとも他人からとも、どちらともいえないのではないか」
という意見がありました。
確かに、「注意深い」においては、他人との比較の中で「あなたは注意深い」とか「ミスらない人」とか言われて、自分でもそうだと自覚していく、そんな構図が考えられます。
「無人島で育ったら、『自分らしい』は成立するだろうか?」という問いがありました。
まあこれは極端な例ではありますが、
「注意深い」「前向きだ」「肉を選びがち」など、らしさを表す言葉は他人との比較を基に成り立っていることが多いですね。
◆「自分らしさ」はマーケティング用語か
「『自分らしさ』はマーケティング用語では」という意見がありました。
最初からの意見があるように、「自分らしい○○」と聞けば、真っ先に雑誌の見出しを想起してしまいます。
自分らしいお部屋作り、自分らしい結婚式、自分らしいお葬式なんてのもあったりします。
皆と同じものではなく、別のものを買いませんか。そうすることで他の人と差別化が図れて印象に残りますよ、ということですね。
「自分らしさ、あなたらしさを利用して、色んなモノを買ってもらう」という直接的な意見がありましたが、
改めて、「あなたらしい」と言っておきながら、1つのパッケージを提案するというのはどういうことだろうか、とは皆が思ったのです。
しかし前半に、「自分らしさとは、形容詞の組み合わせ」という表現があったように、ボヤっとした「自分らしさ」を何かしらでアウトプットしようと思うと、何かのパッケージに乗っかる必要があるのではという意見がありました。
自分でもおぼろげな感じだったものが、そのパッケージ化された実物(部屋や服など)を見て「あ、こんな感じだな」と納得して、「これが自分らしい」と感じるのかもしれません。
◆「自分らしさ」は必要なのか?
「自分らしさって、持っていたほうがいいものだろうか?」
という問いがありました。
これは素朴でありながら、哲学カフェ的には王道の問いであります。
「キャラ」とも似ているという意見がありましたが、それは他人から認識してもらうために具合がいい、という意見につながりました。
マーケティング的に言えば、他者との差別化であり、自分のブランディングとなります。
そういえば、SNSの名前の後に、「読書、音楽、映画、、」など、好きなものや「子育て奮闘中」など、自分の肩書的なものを入れたりしますが、その部分が自分らしさと言えなくもないですね。
昔から、「社会の決めた画一化された生き方、親の敷いたレールに乗りたくない」とは言われていましたが、「自分らしさ」「個性」といったものは、最近になって特に意識が強まっているように思います。
SNSの浸透とともに世界中との競争に参加せざるを得ない現代だからこその悩みかもしれませんが、この哲学カフェでも時々出てくる、「何者かにならなければ」という悩みの表れといえそうです。
◆終わりです。
哲学カフェは時間が来たら、話がまとまっていなくても終わりです。今回はいつにもましてまとまりがなかったという印象がありますが、こういう事も考えられる、ああいう場合はどうだろうか、という意見が多かったのでこれも良いのではないでしょうか。
「自分らしさ」は、それは形容詞をひっくるめたものであり、「私はあなた(自分)のことをこう思っています」という便利な言い回しですが、コミュニケーションに使用するときは、齟齬も生じる可能性もあるものだと感じましたし、その場合は解説が必要になるなぁとも感じました。
以上で、今回の哲学カフェ「自分らしさ」の振り返りを終えたいと思います。ありがとうございました。
では、また!