<かわいそうという言葉は上から目線?>
おはようございます!ちくわです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
2020年より主にオンラインの場(ZOOM)で開催しています。
※今のところ、クローズドでの開催です
今回は、第120回開催になります。
前回開催の記事はこちらになります。
◆「哲学カフェ」とは?
哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。
「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。
私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。
そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。
当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。
◆この日のテーマ
この日の参加者は8名(「聞き専」含む)。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、話したい人は挙手し、1人ずつ話すという方式をとっています。
進行役は私ちくわが行いました。
この日のテーマは、
「かわいそう」
です。
カタツムリを踏んでしまいかわいそうと思うけど、蚊を退治するときにかわいそうと思わない。
人に対してかわいそうな人と言ってはいけないと教えられた。
かわいそうという気持ちは自然に起こってくるものなのか。
奥が深そうな「かわいそう」の使い方について考えてみたいと思います。
では、哲学カフェ、スタートします。
◆どういう場面で「かわいそう」と思うか
「(ある有名人が)収監され過酷な環境に置かれてもかわいそうと思わなかったが、コロナにかかったと聞いてかわいそうと思った」
という意見がありました。
最初のほうは具体例を出してもらいながら、「かわいそう」と思う、あるいは言う場面について、どういう条件の元で使っているか、ということを考えていきました。
絵本「かわいそうなぞう」の話題や、
最近の、被害を及ぼす熊を駆除することを「かわいそう」と言う人についての話題も出てきました。
生きものを殺してしまうこと自体は「かわいそう」なこと、しかしその背景によって、とらえ方も変わってくるように思います。
「自業自得」や「自己責任」という言葉も出てきましたが、
対象の「つらい目に遭っている」「弱っている」ことの背景として、
「不運、不条理、ままならない事」という要素が必要だという意見がありました。
◆「かわいそう」の、上から目線
人に対して「かわいそう」と言うのは上から目線になるので、言ってはいけないと思っている
という意見がありました。
「かわいそうな人」「恵まれない人」というような表現は、近年ほとんど聞かなくなりましたが、そこには、優越感のようなものがあるのでしょうか?
この点についても色々な意見が交わされましたが、そこで出てきたのは以下の2点で、
「かわいそう」と思うことと、「かわいそう」と口に出して言うことのニュアンスが違うということ、
そしてもうひとつは、つらい目に遭っている(と思っている)対象が、自分ではないということ、つまり、対象の弱いところと、弱くない自分を比較しているということです。
また、他人のことをかわいそうと思える「心の余裕」についての意見もありました。
◆「かわいそう」と言ってほしい人
「ああ、かわいそうに」と言ってほしいために、辛い目に遭っている話をする、という意見がありました。
「かわいそうに」という言葉でなくても、「大変でしたね」や、「お気の毒に」など、そういう言葉をかけてもらうこと、かけることについても意見が出てきました。
ここから、「かわいそう」を言うこと、言われることに、なんらかの利益が伴うのだろうか、という話にもなりました。
哲学カフェはまだまだ続きますが、長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。
では、また!

