みんなの日常哲学カフェ&北摂読書サークル

哲学カフェ、読書会の記録を中心に書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

みんなの日常哲学カフェ第120回(オンライン)「かわいそう」②

<自己中心的な価値判断なのか?

 

おはようございます!ちくわです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

今日は前回の続きで

「かわいそう」

について書いていきたいと思います。

 

前回の内容はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

 

◆感情なのか、理性なのか

「かわいそう」と感じることは、瞬間的に湧き起こってくる感情なのか、背景を考慮したうえでの理性的な判断なのか、という話題になりました。

 

これは私も最初から気になっていたのですが、いろいろ具体例を出し合っていく中で、「どっちの場合もある」ということがわかります。

そして、たとえ瞬間的な判断だとしても、それが本能的なものなのか、習慣によって身についたものかについても、「どっちの場合もある」といえるように思います。

 

車にはねられた野生動物を見かけてしまった時、瞬間的に「かわいそう」と思うこともあります。

「今年のボーナス、10万しかなかった」という人に対して、「かわいそう」と思うか、「あるだけましだろ」と思うかは人によって違います。

もし、実験で大切に育てていた蚊がいたとして、誰かにそれとは知らず叩きつぶされたら、「かわいそう」と思うかもしれません。

 

◆「かわいそう」と思わない状況

一般的に「かわいそう」となる状況でも、「かわいそう」と思わないパターンはあるのか?

という問いがありました。

 

TVの「びっくり映像」に出てくるような、泥棒が窓枠に挟まって抜けなくなったシーンとか。

「自業自得」という言葉を前に出しましたが、対象が弱っている前提として悪いことをしている場合です。

 

また、「頻度、レア度」という意見もありました。

皆が同じ不運を味わう状況なら、「かわいそう」とはあまり思わない。

生きた魚や家畜をさばく仕事をしている人は、いちいち「かわいそう」と思っていられない。

 

「数」や「慣れ」以外にも、そもそもその人にとっては「かわいそう」と思わないだけでは?という意見もありました。

 

これには、実は理由なんかいらなくて、逆に考えれば、「かわいそう、となる状況」のほうがそもそも文化的なものでしかないのでは、という気付きにもつながります。

 

食べるために生き物を殺すこと、という話題も興味深いものでした。

動物の大きさによっても印象が変わってきますし、さばき具合(加工具合)によっても変わってきます。

 

◆終わりです。

哲学カフェは2時間が来たら終わりです。

 

今回の「かわいそう」は色んな話題が出てきて、あっという間に2時間が経ってしまったように感じました。

その証拠に、延長戦が1時間ほどこのトピックで尽きなかったです。(こんなことはちょっと珍しいのです)

 

「かわいそうと同情の違い」や、「遠くの他人の大きな不幸と、近くの小さな不幸の扱いの違い」、「かわいそう」と「怒り」の関係とか、はたまた「かわいそう」の裏で動かす経済の話など、いずれも興味深いトピックがありました。

 

以上で今回の、みんなの日常哲学カフェ「かわいそう」の振り返りを終わりたいと思います。

 

では、また!