<自己中心的な価値判断なのか?>
おはようございます!ちくわです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「かわいそう」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆感情なのか、理性なのか
「かわいそう」と感じることは、瞬間的に湧き起こってくる感情なのか、背景を考慮したうえでの理性的な判断なのか、という話題になりました。
これは私も最初から気になっていたのですが、いろいろ具体例を出し合っていく中で、「どっちの場合もある」ということがわかります。
そして、たとえ瞬間的な判断だとしても、それが本能的なものなのか、習慣によって身についたものかについても、「どっちの場合もある」といえるように思います。
車にはねられた野生動物を見かけてしまった時、瞬間的に「かわいそう」と思うこともあります。
「今年のボーナス、10万しかなかった」という人に対して、「かわいそう」と思うか、「あるだけましだろ」と思うかは人によって違います。
もし、実験で大切に育てていた蚊がいたとして、誰かにそれとは知らず叩きつぶされたら、「かわいそう」と思うかもしれません。
◆「かわいそう」と思わない状況
一般的に「かわいそう」となる状況でも、「かわいそう」と思わないパターンはあるのか?
という問いがありました。
TVの「びっくり映像」に出てくるような、泥棒が窓枠に挟まって抜けなくなったシーンとか。
「自業自得」という言葉を前に出しましたが、対象が弱っている前提として悪いことをしている場合です。
また、「頻度、レア度」という意見もありました。
皆が同じ不運を味わう状況なら、「かわいそう」とはあまり思わない。
生きた魚や家畜をさばく仕事をしている人は、いちいち「かわいそう」と思っていられない。
「数」や「慣れ」以外にも、そもそもその人にとっては「かわいそう」と思わないだけでは?という意見もありました。
これには、実は理由なんかいらなくて、逆に考えれば、「かわいそう、となる状況」のほうがそもそも文化的なものでしかないのでは、という気付きにもつながります。
食べるために生き物を殺すこと、という話題も興味深いものでした。
動物の大きさによっても印象が変わってきますし、さばき具合(加工具合)によっても変わってきます。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。
今回の「かわいそう」は色んな話題が出てきて、あっという間に2時間が経ってしまったように感じました。
その証拠に、延長戦が1時間ほどこのトピックで尽きなかったです。(こんなことはちょっと珍しいのです)
「かわいそうと同情の違い」や、「遠くの他人の大きな不幸と、近くの小さな不幸の扱いの違い」、「かわいそう」と「怒り」の関係とか、はたまた「かわいそう」の裏で動かす経済の話など、いずれも興味深いトピックがありました。
以上で今回の、みんなの日常哲学カフェ「かわいそう」の振り返りを終わりたいと思います。
では、また!

