<その指摘自体、五十歩百歩>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
今日は昨日に引き続き、この本の感想になります。
昨日の記事はこちら。
昨日は、自分のことは棚に上げて、他人のことを批判してしまう「自己矛盾」について紹介していき、今日はその続きとして、「自己矛盾」のポイントとなる「メタ視点」をについてもう少し踏み込んで、それを踏まえたうえでの自己矛盾との付き合い方について考えていきたいと思います。
◆メタ視点と五十歩百歩
自己矛盾に気付くには、「メタ視点」がとにかく重要である、と筆者は述べていますが、このメタ視点についてもう少し考えてみます。
主観的・客観的という言葉がありますが、メタ視点は「客観的」ということになります。
京都の方が、大阪人といっしょにしてほしくないと考えているようですが、東京の人から見ると同じ関西人であるし、さらに言うと、外国の方から見ると所詮同じ日本人で、もしくは日本人ですらない「東洋人」というカテゴリーでしかありません。
だから京都の人が大阪の人と一緒にしてほしくないというのは、メタ視点に立つとバカバカしいことに気づきます。
こうやって段々とグループを大きくしていくことが「メタ視点」であるといえます。
別の例ですが、「先輩が後輩にいちいち偉そうにする」というシーンを考えてみます。
先輩は経験に基づいて、後輩にあれこれ言うことができます。でも、それは単に経験があるのとないのとの違いだけであって、それ以上でもそれ以下でもなく、偉そうにしていいかどうかとは関係ありません。
その先輩だって、さらにその先輩に対しては頭が上がらなかったりします。
それを忘れて、後輩に偉そうな態度をとるというのは、メタ視点に立ってみると、ただの先輩→後輩の連鎖であって、偉そうにすることがバカバカしいことに気づきます。
まさに五十歩百歩です。
そして、「客観的」というのは、よくよく考えれば、どこまでいっても「ある地点での主観的」であり、本当の意味での客観的な視点というのは、「神の視点」であって、決して人間にはたどり着けない場所です。
それを忘れて我々は、中途半端な賢者発言をしてしまうのです。
ここに、「自己矛盾」の正体があるのです。
◆究極の非対称性「自分と他人」
仕事で色んな部署の経験のある人は、そうでない人と比較し自部署中心的な発言が少なくなります。というのは、それぞれに事情がある事がよくわかっているからです。
「だったらお前がやってみろ」を自分に突きつける想像ができるからです。
海外経験豊富な方が、安易な外国批判を馬鹿らしく思うのと同じで、別の立場を経験することがメタ視点に立てやすくするヒントになります。
でも、どうしても埋められないのが「自分」と「他人」という溝です。自分はどこまでいっても自分で、決して他人を経験することができません。
筆者が言うところの「究極の非対称性」で、これが「他人の自己矛盾は気になるのに自分の自己矛盾はとにかく気づきにくい」という現象の正体となります。
私がこうやってわかったふうにブログに書いている事自体、メタ視点でみると恥ずかしげもなく、滑稽なことになるんです。はい。
◆自己矛盾との付き合い方
筆者は「自己矛盾は人間である以上決して無くすことはできない」と結論付けています。
まあ、言ってしまえば身もふたもないのですが、まあそういうスタンスでいることが大切なのだと思います。
「自分で気づきにくい」ことを前提にすると、自分の自己矛盾に気づくためには、「気づきやすい他人の自己矛盾に気づいた時に、それをすかさず自分に置き換えてみる」、というのが上手な付き合い方なのではないでしょうか。
・「これだから関西人は」という発言を聞いたら、「自分も同様の発言をしていないだろうか」というふうに振り返る。(してますしてます、大阪の北部と南部を一緒にするなみたいな)
・「人の話をよく聞け」といって自分の話ばっかりする人を見て、自分もそうなっていないだろうかと振り返る。(してます、してます)
・「誰も私のことをわかってくれない」と言ってばかりの人を見て、じゃあ、自分は他人のことをそんなにわかっているのか?と自分にも問いかける。(わかってない、わかってない、、段々胸が痛くなってきます)
などなど、、。
でも、やっぱり「自己矛盾」は滑稽で面白いですね。
やがては自分にブーメランとなって返ってくるとわかっていても面白い。
だいたひかるの「どうでもいいですよ♪」はじめ、あるあるネタが一定の魔力を持ち続けるのもわかります。ツイッターにちょうどいいし。
では、また!