<ハッピーになる方法に答えは無い>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、昨日の続きを書いていきたいと思います。
昨日の記事はこちら。
昨日は、以下のようなことを書いてきました。
・教祖というのは人をハッピーにする仕事
・困っている人をハッピーに出来るなら、やり方はなんでもいい
・困りごとが無い人には、作ってあげればいい
今日は、その続きです。
◆古典的宗教も、新興宗教も基本的には変わりがない
新興宗教というのは、現代の価値観においてうまくいっていない人、困っている人に、救いの手段を提供するものであるため、どうしても、アウトローになってしまうものだ、と筆者はいいます。
これは、納得です。
現代においては、例えば資本主義において貧富の差が拡大しているため、貧しい人がカタルシスを得るためには「お金を使わないほうが幸せ」という教義が必要となるわけです。
そうなると、市場経済に加わらない自給自足生活などの閉鎖的な空間を作ったり、ミニマリスト的なのを極端にした価値観が台頭してくるでしょう。
では、3大宗教に代表されるような、古典的宗教はどうなんだというと、例えばキリスト教においては差別されていた社会的弱者と積極的に交わり、当時のタブーを侵しまくったりというとんでもないアウトローとみなされていたとのこと。
仏教にしても、もともとお坊ちゃんだった釈迦が現実社会を捨てて、物乞いをして生きていくような仲間をたくさん作ったわけですから、これもとんでもないアウトローであることは間違いないです。
そのように当時の価値基準の中に、自分の新しい価値観を落とすことで弱者となっている人をハッピーにするというのが宗教の本質であるということです。
そしてずっと続いている宗教は、教義解釈をマイナーチェンジしながら、続いてきたことで、ブランド価値を獲得したということになります。
例えば、新興宗教の人が普通の白い石を、体の悪いところを治すパワーストーンとして売りつけてきたら買わないけど、○○天満宮が合格祈願のお守りを売っていたら特にためらいもなく買ってしまいます。
これはブランド価値というものでしょうね。
◆結束力を高める
この本を読んでいると、宗教というものは、図ったか図っていないかに関わらず、いくつもの仕掛けがあるということがわかります。
ちょっと不自然なルールなんてものがまさにそうですね。
○○を食べてはいけない、○○をしてはいけないとか、苦行を課すとか、全身白装束を頭からかぶるなんてものもありましたね。
そういった不自然なルールは、やる事自体がつらいものであるため、それをみんなでやり遂げることでかえって結束力が高まり、「他のみんなとは違うんだぞ」といった自尊心を高める結果ももたらします。
また、そのふるまいが異質であればあるほど、世間から批判されればされるほど、一般人との隔絶が生じ、それがかえって自分たちが信じている宗教への帰属意識が高まるという、皮肉な結果をもたらすのです。
また、宗教的建築物や、イベントも重要であるようです。
確かに、イベントなんかは大掛かりで面倒であるほど、やり終えた時の満足感も大きいですし、やった後仲間の結束も強まるものです。
建築物も浮世離れしている方が、俗世間との差別化という意味では重要でしょうね。
◆お金を集める
お金を集めるのも、組織の維持には重要です。
「とりあえず、葬式はやろう」という記述もあるように、葬式は人をハッピーにしたうえでお金ももらえる重要なイベントです。
また、免罪符やお守りであったり、数珠などの祈祷グッズを販売することも重要ですね。
思い出したのですが、今流行の「ご朱印めぐり」なんてのも、コレクション心をくすぐる、非常によくできたシステムですね。
そして、とても大切なのが、「お金持ちを味方につける」ということでしょうね。
「お金持ちの人はお金を捨てたがっている。彼らは捨てることでハッピーに思うのだから、喜んで受け取るべきです。お金はうんこで教祖は便器です」
という表現があって、吹き出しました。
確かに、財を築いてしまった人は、あとに残った人生でやる事は、自分の健康長寿を願うか、今まで行ってきた悪業をざんげするか、お金をつかうことで社会貢献するかぐらいしかありません。
先日神社の石段を登っていて、階段の脇の石の柱に寄付した人の名前や企業名が彫られているのを目にしたことを思い出しました。
多額のお金を寄付した人は、より上の方に、より大きな柱に名前が書かれています。
これを見て、社会貢献をしているという満足感と同時に、寄付した人の自尊心が満たされるうまい仕組みだなと感心したものです。
◆いい悪いは関係ない
私が色々書くと、結局のところ皮肉っぽくなってしまいましたが、私は宗教を信じていはいませんが、決して否定しているわけではなく、社会システムの一環として大切なものであると感じています。
信じてはいませんが、先日も厄除けに1万円払い、七五三祈祷で1万円払い、写真で6000円払い、しめ縄を1000円出して買い、クリスマスケーキを3000円で予約し、お寺に行って手を合わせお賽銭をいくばくか入れました。
これらは、別に信じているからお金を払うというよりも、それを通して自分の生活が円滑に働くのなら、その対価として支払っているものといえるでしょうか。
神社の景色や雰囲気を味わい、子供の七五三写真を撮り、はたまた仏像の何とも言えない表情を眺め、ハッピーな気分になるから、進んでお金を払っているという感じです。
繰り返しになりますが、「そのプロセスや根拠がインチキであろうが関係ない」と最初に書かれているのは、そういうことです。
宗教と、宗教的なもの、について、非常に多くのことを学び、考えるきっかけになったいい本だと思います。間違いなくオススメ本です。
では、また!