<言葉によるコミュニケーションの拒絶?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
③「弁解するな!」
この国のマジョリティは、言葉を尽くし論理を尽くして弁解しようとすると、顔を歪め手で振り払って厭がる。弁解は、誠実とは反対に卑劣な態度に見える。
同じような叫びに、「理屈じゃないんだ」とか「言葉じゃないんだ」とか「形式論理じゃないんだ」とかいうものがあります。
これも面白い指摘です。コミュニケーションの基本である「言葉による説明」をあえて拒絶する場面というところが確かにあります。
日常生活や仕事の場で、些細な事すべてに議論・弁解していては時間がもったいない。納得はいかないが頭を下げておいて、次に進んだほうが自分にとってもメリットがある、ということは往々にしてあるものです。
だからあらゆることにおいて言葉を尽くすべき、という主張は行き過ぎのような気がしますが、「言葉を尽くそうとしている人を封じ込める」という言い方になれば、少し意味合いが違ってくるかもしれません。
例えば侮辱するような言動をとってくる人に対し、抗議したとします。それに対し、「もうちょっと大人になりなさいよ(我慢しなさいよ)」とたしなめるのは、やっぱり違うと思いますし。
④自分の好きなことが何かあるはずだ。
最後はこれにします。
その何か好きなこととは、ナンバーワンのソープ嬢であったり、優れた麻薬運び人であってはいけないからです。
いかにも地味な感じの少女がファッションモデルになりたいと思い切って告白すると「ほんとうにそれがきみのしたいことなのかなぁ?ただ、華やかな世界に憧れているだけじゃないのかい。ようく考えてごらん」と突き返す。
つまり、当人がほんとうに好きかどうかはこちらが決めてやる、という狡い態度がそこにある。
逆に、自分の本当にしたいことは、「特に何の取りえもないから、地味でいいから平凡に、戦わず、のんびり生きていたい。」と思っていたとしても、そう口に出してはいけないような雰囲気があります。
夢を語る際に「ひとかどの人間像」でなくてはいけない、もっというと「社会的にいま認められている仕事」でなくてはいけない、というのは、たしかにどこかおかしい気がします。
◆言葉の裏に潜む傲慢や価値観の押し付け
いくつか挙げてみましたが、日常的に使われている言葉でも、よく考えてみればその言葉の裏には傲慢や価値観の押し付けがある、ということがわかります。
一見すると非常に面倒なオジサンのボヤキ、と、とることができます。
しかし自分を省みるに、善人ヅラして言外に自分の欲望を他人に押し付ける「ずるい言葉」を使っているんではないだろうか?
逆に言葉を尽くさずに、相手を「こうである」と決めつけコミュニケーションを拒絶してしまってはいないだろうか?
そういった鋭い指摘が自分に刺さってくる、とても刺激的な読書体験であったな、と振り返ってみて思うのです。
感想は以上になります。
では、また!