<流行ワードも、少し考えてみたら、>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで「青空哲学カフェ」、テーマ
「コロナ禍で感じたこと」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
以下のようなトピックが出てきました。
・コミュニケーションが変化した
・オンライン○○の功罪
・顔とアバター
◆自粛・自粛。
前半は、「コミュニケーションの変化」について展開していきましたが、休憩をはさみ、進行から次のトピックに移る提案がありましたので、次は「自粛」にしようということになりました。
そもそも「自粛」というのは字のごとく自分をつつしむものです。
それを「要請する」というのは、日本語からしておかしい、というのは多くの人が感じていて、今回も意見として出てきました。
しかし、このコロナ流行下では「自粛」がある程度成功たのは、どうしてでしょう?
メディアでも色んな論調がありましたが、実際のところどうだったのか?
医療ひっ迫からの、死の恐怖というのももちろんありますが、出てきたのはそうではない意見が多かったですね。
まず出てきたのは、「人のために何かをしている」、「手軽にできる人助け」という意見。
なるほど、自粛を「我慢」と捉えるのではなく「貢献」と捉えなおす。そうすると自粛にも前向き感が出てきます。
「社内の感染第1号になりたくない!」という意見には私も同意でした。
いずれはありふれたものになる、というのはわかっていても、とかく第一号は悪目立ちするし、オフィスクローズや消毒、接触者への連絡といった実際的な迷惑もかかってしまいますからね。
「感染者を差別しない」というワードも流行しました。
いっぽうで「ワクチン打ちたくない人を差別している」という意見もありました。
次に出てきたのが、「自分は、案外自粛しているといった感じはない」、という意見。「あぁ、それ私も」という同調意見もありました。
毎日変わらず出社するし、食べ物屋さんで食事するし、もともと旅行そんなしないし、。といった感じです。
飲食店が早く閉まる、休業するといった物理的なことを除けば、、。
「自粛警察」についても話題に上がりました。
新型コロナウィルスという、誰も良く分かっていない、不確かなエビデンスしかない状態で、各々がそれぞれに「正しさ」を持ち、そのそれぞれの「正しさ」が摩擦を生みだしてしまいました。
また、「みんな我慢しているのに、あなただけ楽しんでいるのは許せない」※この場合の「みんな」は「自分」に置き換えられます。
といった、ねじ曲がった発想にもなりましたね。
「マジメな人ほど、自粛警察化しやすいのでは?」
当哲学カフェのメンバーは、価値観や「正しさ」を相対化することに慣れているのでこういう意見も出てきやすいです。
「不要不急って何だ?」
という話題にもなりました。
例えば舞台観劇が生きがいの人にとっては、それは不要不急ではないのでは?という意見もありましたが、確かに不要不急を具体的に落とし込むと、個人個人異なるはずだ、ということに気付きます。
◆終わりです。
といろいろ話題が拡散してしまいましたが、予定の2時間となったので哲学カフェは終了です。
久しぶりの対面で、気持ちのいい陽気の野外ということで、のんびり会話を楽しめたのが何よりも良かったです。
このまま次の波が来ないことを祈り、近いうちの次回開催を望むのでした。
では、また!