<性格が先か、行動が先か?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「性格」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・どんな「性格」があるか、「人格」や「人柄」との違い
・性格は先天的なものか
・良い性格、悪い性格とは
・「良い性格」と協調性
◆性格は誰が決める?
結局、性格って、行動なのか、行動の前提にある内面的なものなのか?
性格を決めるのって、誰なのか?
問いは尽きませんが、ひとまず休憩を経て再開です。
結局のところ、性格というのは何を指しているのかは置いといて、性格が表れてくるのが、言葉なり行動であることは了解できたようです。
優しさというのは、人を助ける行動であったり励ます言葉であったり、そういった行為を取る人のことを指しています。
だとすると、性格は「行動を判断するための背景となる価値基準」ということになるのでしょうか。
「性格は結果で判断される」という意見もありました。
例えば「後輩に対して面倒見がいい」というのは、後輩が育たなければ「あの人は甘やかしてしまう」という風に変化してしまう、ということです。
「内面なんてわからない」という意見もありました。
一見、優しく接しているように思えても、やっている本人は打算的にやっているだけかもしれません。
というふうに、いろんな意見・批判が出たところで、
性格というのは、「その人が取りがちな行動を形容したもの」
というふうな言いかえができるかと思います。
そして、その性格、例えば優しいとか残酷だとかいう形容は、それを決める基準があるはずです。例えば文化や時代の違いによって残酷だったり、当たり前だったり、変化するからです。
そこについては検討の時間がありませんでしたので、それは宿題ということに。
◆性格を把握してどうしたいのか?
こんな、面白い問いもありました。
確かに、「あの人はこうだ」と性格を決めてしまいたがるのは、なぜでしょうか。
「性格は、能力やスキルのような、その人を表すデータの1つ」というような意見がありました。
確かに、社会生活を営むうえで、他人と仕事をする際に、その人の性格を把握していくことで、効率が良くなったり、無用な摩擦を避けることができると思います。
「同じ人間として、他人のことを知りたいという欲求」という意見もありました。
やはり、知らないより、知っていたい。というのは、それも理解できるところですね。
「カテゴライズしたくなる一方で、『決めつけ』という弊害もあるよ」
という意見も、忘れてはいけませんね。
◆私って、こういう性格だから
「『私って、こういう性格だから』というのを言い訳にすることがある」
という意見がありました。
社交的ではないので、会合には出席したくない、とか、細かい作業が苦手なので、別の人にやってもらってほしい、とか、自分がやりたくない仕事の言い訳として性格を使う、ということです。
「『私って、引っ込み思案な性格だから』と言って、『いえいえ、そんなことはないですよ、立派なものです』というふうに否定してもらいたい、謙遜するふうに使う」という別意見もありました。
そしてさらに、「自己暗示をかけたり、自分を鼓舞する目的で、『自分は妥協を許さない』など、厳しい性格を公表してしまう」、という面白い意見が出てきました。
ここから、
「心が変われば行動が変わる、行動が変われば習慣が変わる、習慣が変われば人格が変わる、人格が変われば運命が変わる」
という有名な言葉を思い出した意見がありましたが、心の部分を性格と読むのか、人格の部分を性格と読むのか、という問いがさらに深まります。
ここからは、「人格」は後天的なニュアンスで使われるということは理解できますが。
◆終わりです。
昨日も書きましたが、今回の哲学カフェは、2時間を通して考えていくにつれ、わからないことが増えていく、という印象が強かったです。
性格という言葉の使われ方の範囲が思ったより広かったこと、があったのかもしれません。
考えが尽きないというのも、哲学カフェの楽しさですので、50回目にして、まだまだやれることがあるということを確認できたかな、とも思います。
引き続き、51回目以降も楽しくやっていきたいと思います!
以上で、今回の哲学カフェの感想を終わりにしたいと思います。
では、また!