<テーマ選定の難しさを思う>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、先日参加した哲学カフェの模様を書いていきたいと思います。
◆「哲学カフェ」とは?
哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。
「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。
◆この日のテーマは「傷つけない本音って何だろう?」
HPにあるように、「こうべふらんす哲学カフェ」は、
「日々の素朴な疑問を、肩書きも年齢も今までの個人同士の関係も関係なくいち個人が対等な立場でゼロからかんがえる場です。」
というコンセプトで続けられている神戸の哲学カフェ。月1ペースで開かれています。
この日集まったのは途中参加も含めて10名程度だったと思います。
テーマはあらかじめ用意されていて、事前告知されていました。
この日のテーマは「傷つけない本音って何だろう?」。
実は今回、のっけから、この「テーマに関する問い」がメンバーより続発していました。
まず、「本音」とは「傷つける」ものなのか?ということ。
そのためには、「本音」とは何なのか?を考えて、そこから「傷つける」本音とはどういうものなのか?を探る必要があります。
しかし、同時に「傷つけるとはどういうことなのか?」も考える必要があります。
受け止める側の「傷つく」には多分に個人的問題が関わってくるので「傷つけない」なんて不可能なんじゃないか?
そもそも、本音を言われた人が、「傷ついた」というのは、どうやってわかるのか?という疑問も起こったります。
家族が作った料理がまずかった場合、どういう風に言うのか?
職場で困った人がいる場合、本人にどう伝えるのか?
本音が言えないのはどうしてか?
言ってはいけない本音のボーダーラインとはどこになるのか?
あえて他人が傷つくような本音を言ってものごとが好転する場合は?
日常生活で本音って、どれぐらい言っているのか?
自分にとっての「本音」って、結局どこにあるのか?
さまざまな切り口から、「傷つけない本音って何だろう?」についての意見が展開されて、とても興味深い話がたくさん聞けました。
中には、本音を言ったことで起こった職場のドラマを紹介してくれた方も♪
あと、哲学対話における「本音」の役割についての意見もでていましたね。
感想ですが、今回のテーマが「傷つけない本音って何だろう?」だったことで、最後までこの「テーマそのものについての問い」が続く、という珍しい展開になっていた気がします。
原因としては、「本音」という言葉と「傷つける」という言葉、この両方の言葉においてそれぞれ定義に幅があり、テーマを深めていくためにはそれぞれについて検討しあう必要がありますが、2時間ではその時間が足りないということなのかなぁ、と感じた次第です。
日々勉強。ありがとうございました。
では、また!