<むしろどうしてそう思うのかということ>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「明るくしなきゃダメなの?」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・明るい人・暗い人
・「明るい人」とは?
・「暗い人が好き」ということ
◆「明るい」の効用
「明るくする」にはどういう効用があるのでしょうか?
「集団の中ではみ出さないように、明るく振る舞う」という意見がありました。
いっぽうで、「集団の中からはみ出さないように、わざと目立たなくする」という反対の意見もあり、この部分は少し盛り上がりを見せました。
「明るく振る舞うことが、必ずしも好印象を与えない」という意見が新鮮でした。
SNS上で、楽しかったことを楽しかったこととしてそのまま書き込むと疎まれる、といったことがあるということ。
◆そして、最初の問いに戻る
しかし、そういった出る杭は打たれるような、嫉妬心からくるものもありますが、おおむね「明るい」に関していえば、最初のテーマに戻るように「明るくしなきゃダメ」という価値観は万国共通、時代を問わずにあるように思います。
それはやはり、功利的に見ても「明るく振る舞う」ことにメリットが多く、デメリットが少ないから、とりあえず生存戦略上「明るく振る舞っておけ」と言っておくことは正解なのかとは思いました。
◆「明るくしなきゃダメ」なの?
しかしながら、「明るくしなきゃダメ」という命令形については、やはり引っかかるという意見も。
「明るくしたほうがトク」と「明るくしなきゃダメ」は、似ているようで随分違います。
・会社の飲み会でテンションの高い上司には合わせないといけない
・カラオケでアップテンポの歌を選ばなければいけない
・SNSでのキラキラ合戦
色んな「明るくしなきゃダメ」が出てきましたが、
接客業など業務上明るく振る舞わなければいけない人以外は、
やはり「明るくしなきゃダメ」というわけでもなく、「明るくしなくてもいい」はずです。
「キラキラアピールに付いていってしまう人は、幸福度が低いのでは」という意見もありましたが、他人やその場の雰囲気に流されがちな人、そうではなく自分の態度を決められる人、という違いもあると思いました。
◆終わりです。
哲学カフェは、時間内に結論をまとめるということをしないので、2時間が来たら終わりです。
「明るく振る舞う」という言い方には、感情と行動が一致していないようなイメージがあって、明るくしたくない時にも、明るい振る舞いをするといったように。
感情と行動の関係、この辺をを掘り下げていくとまた面白いのではと考えながら、今日の哲学カフェは時間となりました。
すいません、今回はかなり、とりとめない文章になってしまいましたが、
以上、今回の哲学カフェの振り返りを終わりたいと思います。ありがとうございました。
では、また!