<他者という存在は、関わりの中でアップデートされていくもの>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。
昨日は、ネタバレなしを前提に書いていきましたが、この本の感想をもっと書いていくために、今日はネタバレを覚悟で書きたいと思います。
※ここより先はネタバレになりますので、ご注意ください。
◆「僕は、自殺なんかしていない。」
結論としては、上巻の最後のほうで、防犯カメラの映像が見つかることにより、徹生は自殺であることがはっきりします。
しかし、本人が精神的に不調をきたしていたことで覚えていない、また、工場長がその説に助け舟を出したことで幕引きまで時間がかかりました。
自殺であったことを肯定することは、本人にとって大きな問題です。それは「自分はあの時確かに『幸せ』であった」ことを否定しかねないからです。
それは妻にとっても同じです。「自分が気づいてあげられなかった、救ってあげられなかった」「自分との生活は幸せではなかったのだろうか?」という後悔を一生抱え続けないといけないかもしれないからです。
徹生が生き返ったことで、はっきり自殺であったことを受け入れ、「その時、確かに幸せだった」ということを確認しもう一度歩き始める覚悟ができたことで、妻にとっても心の区切りがついたのだろうと思います。
◆「たまたま、最後にこぼしたインクがその人の人生を染めてしまいます。」
人と死別した時、その最後の瞬間によってその人の思い出が固定される、という印象的なエピソードがあります。
徹生はそれまで、まったくもって善良に過ごしてきて、でも最後の瞬間が自殺であったことで、周囲の徹生に対するイメージが、「妻と幼い子を置いて飛び降り自殺した男」という風に固定されてしまいました。
逆のエピソードとして、同じく生き返った人の中に、そんな気はなかったのに、火事でおばあちゃんを助けようとして死んだ男が、「英雄」として崇められてしまい困惑している、という話がありました。
このことから筆者は、他者の存在というのは、「その人」という唯一無二の人格があるわけではなく、あくまで「自分の頭の中で」、対象者のエピソードを組み合わせて構築しているに過ぎない、ということを言いたかったんだと思います。
そして、その人が死んでしまうと、その自分の中にある「他者」をアップデートできないために、「最後の瞬間」の印象に固定されてしまう、ということになるのはうなずけます。
心理学の「ピーク・エンド」の法則というのを思い出しました。
◆「空白を満たしなさい」
翻って、この作品のタイトルです。
「空白を満たしなさい」の空白とはなんだろうか?と考えます。
想起したのは、徹生が死んでから蘇るまでの3年間ということです。
この3年間があったために、妻と子供の生活が大きく変わってしまった。
妻は「夫の自殺」という事実に苛まれ、周囲から「夫が自殺した家」というレッテルを貼られ、幼い子供は父親の存在をどう処理していいかわからない。ましてや「天に昇った」と教えられた父親が帰ってきた。
夫婦の絆、親子の絆を作っていく過程にぽっかりと空白ができてしまいました。
筆者自身、幼い頃に父親を亡くした体験があったことで、親を亡くすというエピソードが作品中によく出てきます。
そんな筆者の親に対する印象をどう処理したらいいか?という問いをずっと抱えていたのだろう、ということがわかります。
物心つく前に亡くした父親の像は、母親から聞かされるどこか美化された話から作られていることを感じたというエピソードがありましたが、まさに筆者の中で、「ほんとうの父親とはどこにあるのだ?」という疑問があったのでしょう。
◆そして、ラストシーン。
この本を読んでいって、徹生の自殺の真相は明らかになり、未来への希望も見えてきました。
しかし読んでいて疑問に思ったのが、「結局、徹生および世の中の死者が生き返ったということはどういうことだったのか?」ということと、「この物語は、どう終わるのだろう?」ということです。
そんな疑問を見事に回収し、感動に昇華させたラストシーンは、さすがの一言です。
※ここのネタバレだけは伏せておきます。
生きているということは謎に包まれていて、そんなこと誰にも答えなんて言えない。でもかけがえがないということだけは間違いない。
結局、幸福っていうのは、「今この場で、自分と他者の関わりの中で、感じていく以外のことは何もない」という感想を持ちました。
感じたことはまだまだあるはずですが、印象の強かったことを書いたところで、感想を終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!