<「思い込み」は対になる「正しさ」とセット>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「思い込み」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・「思い込み」には程度の差がある
・突き詰めるとすべてが思い込み
・科学でさえ思い込み
・「思い込み」だと気付くことはどういうことか
◆「思い込みだということを知る」とはどういうことか
「『それは思い込みだよ』と指摘する第三者」や、
「『あれは思い込みだったな』と過去の自分を振り返る」というように、
「思い込んで」いる自分自身では、思い込みであることに気付いていないということになります。
さらに意見があって、
「『思い込みだった』と気付くのは、たいていネガティブな内容である」
ということです。
相手の意図を読み違えていたり、考えていたことと別な事実を示されたときに、自分の早とちりや決めつけを後悔するという構図であることが多いように思います。
◆「思い込み」と「正しさ」
「あれは思い込みだった、と気付く」ということには、
「思い込み」の内容が、間違いであった、という意味を持っているのではないか、という意見がありました。
ということは、「思い込み」には、対になる「正しさ」があるということでしょうか。
※「正しさ」というのは、絶対的なということではなく、あくまでその時点での正しさということですが。
「○○という地域の人はガラが悪い」というのは、偏見というものですが、実際に友達になったり住んでみたりすると、案外そうでもなかったと気付く、そんな構図なら理解できます。
◆「拡大解釈」と「決めつけ」
「思い込みとは拡大解釈のことでは」という意見がありました。
偏見と呼ばれるものは、たしかに一つの事象を全体に当てはめてしまい、誤ったイメージを持ってしまう、拡大解釈というもので、それは「思い込み」ともいえるものです。
「○○産食品は体に悪い」というたぐいのものです。
では、「拡大解釈」は、
「一部の事象を全体に当てはめる」⇒「少ない情報から全体を誤って把握する」
という構図であるように思います。
しかし、「いろいろな可能性を比較検討したうえで『こうだ!』と決めつけた場合は、『偏見』とはまた違うのでは?」という別な意見もありました。
◆終わりです。
実はこの話題に差し掛かった時、もうすでにタイムリミットの2時間が近づいていて、
そこから、さらにややこしくなる事例として「『思い込もうとする』とはどういうことか?」という問いがあったりもしました。
「思い込み」という一つのテーマに対して、話せば話すほどわからなくなっていく、モヤモヤが多く残ったまま終わる。
哲学カフェにはよくあることなんですが、そんな印象が特に強かった回だったなぁ、と振り返るのでした。
以上で、今回の哲学カフェの振り返りを終えたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!