ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

「映画を早送りで観る人たち」 稲田豊史

<1つ1つの現象の背景を考えていくと、現代が見えてくる>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本。

 

内容<amazonより>

現代社会のパンドラの箱を開ける!
なぜ映画や映像を早送り再生しながら観る人がいるのか――。
なんのために? それで作品を味わったといえるのか?
著者の大きな違和感と疑問から始まった取材は、
やがてそうせざるを得ない切実さがこの社会を覆っているという
事実に突き当たる。一体何がそうした視聴スタイルを生んだのか?
いま映像や出版コンテンツはどのように受容されているのか?
あまりに巨大すぎる消費社会の実態をあぶり出す意欲作。

◆この本は

ボリューム:★★★☆☆(新書サイズ)

読みやすさ:★★★★☆(読みやすい)

気付き学び:★★★★☆(社会現象としてすごく興味深い)

考える  :★★★★★(事象から問いが生まれていく)

 

むしろもう、これは大きな、不可逆な流れのひとつのように思います。なぜ?と問うても、それのどこが悪いのか?となってしまうので価値観がかみ合いません。だからこそ、問いが新たな問いを生んでいく非常に面白いテーマ、読んでよかったです!

 

◆内容紹介・感想

この本は、タイトルずばり、「倍速再生」について問いかけるものになっています。

まず最初に結論から入っていますが、要点は3つです。

この箇条書きを見れば、ほぼこの本の内容は理解できるかと思います。

(👆これが、この本らしいところといえばらしいですが)

 

①映像作品の供給過多

・サブスクリプション・サービスの普及

・自宅でいつでもすぐ観られる

・動画視聴環境の進歩

 

②現代人の多忙に端を発するタイパ志向

・娯楽の多様化

・SNSによる口コミの充実

・失敗したくない心理

 

③セリフですべてを説明する作品が増えた

・「わかりやすさ」を重視する志向

・視聴者のワガママ化

 

ちなみに、自分が仲間内でやっている「オンライン哲学カフェ」でも、最近これをテーマに考えてみました。その内容はこちらです。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

 

ここからはこの本の感想を書いていきます。

まずは、この本のタイトル「映画を早送りで観る人たち」を否定的に捉えるかどうか、というところだと思います。

筆者は「大きな流れ」として、この現象に目くじらを立ててもしょうがない、というスタンスで結んでいますが、私もこれと同意見です。

現在の視聴環境(ハード面)がこうなってしまった以上、後戻りすることはできません。

 

こうなると、この先は、「鑑賞」と「消費」を分けて考えるしかない、ということになってくるでしょう。

 

映像作品であっても、小説であっても、ストーリー展開を練られて、そこに至るまでの表情や仕草に込められた伏線、言外に込められた意味、あるいは風景描写から伝わってくるメッセージを楽しんでもらう、という製作者側の意図をすっ飛ばして、早送りとか30秒飛ばしとかで観ていくんですね。

 

自分の感覚として、「作者に失礼」というのももちろんありますが、「もったいない」という気持ちが強いかなと思います。

でもそれが「サブスクリプション」になった今、「もったいない」という気持ちが薄れ、さらに「もっと他のも観ていきたい」が勝ってしまうのでしょう。

 

先に結末部分を観てから、これは観るべきかどうか、観たいかどうか判断し、自分のOKが出たものだけ観る。

ネタバレサイトであらすじを確認してから、観たいと思ったものだけ観る。

セリフのない部分はどんどん10秒飛ばし。

 

「極めて異常な視聴スタイルといえるのに、彼らには全く悪気がない」という説明も、非常に興味深いです。

 

例えば雑誌を読むことに例えるとわかりやすいかもしれません。パラパラとめくって、読もうと思う箇所を決めて、読みたい順番に読んでいき、読まない記事ももちろんあっていい、そんな感覚でしょうか。

 

ハウツー本を読むときは1冊の本という体裁になっていますが、読書術としては、気になる箇所、重要だと思う箇所だけ読んで、全部は読まなくていいことを推奨(?)されています。

 

とすると、作品の情報(コンテンツ)化が進んでいるということなのでしょうか。あるいは、作り手側が情報として作っていなくても、受け手側が情報として消費してしまう、そんな構図になっているのでしょうか。

 

「『制作委員会』なるものが、『わかりやすさ』を求めてくる。」

「説明が少ないから、わかりにくい」

という「わかりやすさ」への問いも、非常に興味深い内容でした。

 

わかりやすさ=答えがひとつ⇒快

わかりにくさ=答えがない、とらえ方によって違ってくる⇒不快

という構図だということですね。

 

わからないまま置いておく、考えを巡らすことが、どうも許せない。

この気持ちは、それではいけないと気付いている一方で、共感できるところがあるんですよね。

 

その背景として、とにかく日常生活が忙しいことがあるかなと思います。パッパ、パッパと次から次へと送っていかないと、仕事や雑事が終わっていかない。

あるいみ、「立ち止まったら、負け」的な日々を繰り返していると、趣味の世界でも、立ち止まることができなくなってしまう。

考えてみれば、これは悲しいサイクルですね。

 

「新しい作品は観ないで、気に入った映画を何度も繰り返し観る」

というのもありましたが、これも、「仕事でクタクタになって帰ってきて、新しい映画を観ることは、まず設定をイチから理解して、さらに考えさせられる内容だったら、もういいや、、」と考えると、とても理解できます。

 

インフルエンサーが映画や本の解説動画で、短い言葉で鮮やかに言い切ってもらって満足してしまう。正解を次々と知って知識を増やしていくいっぽうで、思考停止も進んでいく、そんな現代社会の課題が見えてきました、はー。

 

映画の話に戻るとして、

「話題だから観ておく(消費)」と、「好きだからじっくり楽しむ(鑑賞)」の両方を受け入れられる作品が本当にヒットしていくのでしょう。

ライト層もコア層もどちらも楽しめて、さらにつまみ食いだけする人、変則的消費をする人をも受け容れる、守備範囲の広い作品ですね。

ゲームで言うと「マインクラフト」のような。(すぐ脱線する)

 

とりとめもなく書いてきましたが、要は、

楽しみ方が多様化してしまった今、起こってくる現象に目くじらを立てても仕方がなく、その多様化に対応できる作品がヒットしていくんだろうと思いました。

でも、作り手のこだわりを楽しみたい人もいなくならないし、逆にとにかくライトな作品も必要とされているんだろうなと思います。

 

以上で、感想を終えたいと思います。

では、また!