<友達は「作る」ものなのか?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「友達」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆子供の頃、学校での友達は?
友達と言えば、学校での友達はどうだったでしょうか。
学校では仕事場と違い、だいたい誰かしら友達がいた印象があります。
子供時代、「クラスメイト」と「友達」の違いはどうとらえていたでしょうか。
幼稚園ぐらいまでは、知り合いじゃなくても「おともだち」などということはありますね。
「小学校ぐらいまでは、クラスメイトと友達はそこまで区別していなかった」という発言がありましたが、
中学~高校~大学と上がっていくにつれて、人数規模が大きくなり「他人」が増えることで、人間関係の濃淡を学んでいったのでは、と過去を振り返りながらの意見もありました。
そこから、「子どもの頃はクラスに友達が必要で、大人になったら職場に友達が不要になるのはなぜか?」という問いも生まれました。
◆友達は、作るものなのか?
これは「なぜ、友達を作るのか?」という問いから始まった話題ですが、
そっちには入っていかず、「友達って、『作る』ものなのか?」という別の問いが生まれてきました。
哲学カフェでは問いが生まれると同時に、その問いの前提を問われるということはしばしば起こるものです。
「作る」ものだとすると、そのプロセスはなんだろう、という問いになっていきます。
友達は「作る」というより、自然に「そうなっていた」という意見もありました。
しかし、大人になっての「友達作り」というものは、職場や元・同級生でない限り、サークルに参加しに行くなどの行動を起こさなければなりません。
そういう意味では、「輪に入っていく行為」はするが、その中から友達を作っていくというのは別問題であるという意見も。
◆再び、仲間か友達か
最後のほうに、「読書会『仲間』とは呼ぶが、読書会『友達』とはあまり呼ばない」という意見があって、仲間・友達問題が少し復活しました。
趣味のサークルでは、釣り仲間、飲み友達、茶飲み友達、テニススクールの友達、、など、慣用的表現はあるかと思いますが、「仲間」「友達」を両方使うようです。
強いて分析するならば、前半出てきた、「釣り仲間」などは「共通の目的を持っている」という点は職場のそれに近いかもとは思いましたが。
そこから職場の友達いない問題に返ってみると、職場の「同僚」という意識が、むしろ「友達」になることを妨げているのでは、という感想をもちました。
◆終わりです。
哲学カフェは話がまとまっていなくても、時間が来たら終わりです。というかまとまらせることにこだわらないのが哲学カフェです。
最終的に「友達」について私が持った感想としては、「遊ぶ」と「目的が無くても」がキーワードになっているのでは、と感じました。
今回は、活発に意見が飛び交い、問いが新たな問いを生んで、トピックが広がり、それにつれて宿題が増えていった哲学カフェになったなぁというのが印象です。
身近なものでありながら、それぞれ違った捉え方を持っているテーマであったからかもしれません。
以上、オンライン哲学カフェ「友達」のレポートを終わりたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!