ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第91回「怪しい」②

<危機回避と固定観念が相互に作用しているといえるのか>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

今日は前回の続きで

 「怪しい」

について書いていきたいと思います。

 

前回の内容はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆子供にあいさつをした老人が何故不審者情報となったのか?

「怪しい」についての理解が進んでいったところで、一番最初の「子供に『おはよう!』とあいさつをした老人が何故不審者情報となったのか?」という疑問に取り掛かることにしました。

 

「老人が子供にあいさつする行為が」普通や正しさといったことから外れている状態だとしたら、何が正しい状態だということになるでしょうか。

 

近所の住民が、知り合いか、それとも赤の他人か、そんな話が出てきました。

赤の他人とは話さない、というのが正しいことなのか。

 

「逆に子供から大人に挨拶をしたなら、怪しいとは思わないのではないか」という意見から、

「『怪しい』は受け手当人の評価だから、受け手が想像しづらいシチュエーションだなと思ったら、それは怪しい」

というふうにも考えられます。

 

それは、「知らない大人が声をかけてくる」という「怪しさのデフォルト」に引っ張られているのかもしれません。

 

「怪しさはその人を取り巻く文化・習慣が反映してくる」という意見がありましたが、怪しさが受け手の評価である以上、そうなのでしょう。

見ず知らずの他人と話すか、話さないか、それは、時代(世代)と関係があるのか、活発に話が出てきた部分でありました。

 

◆自己啓発はなぜ怪しいと思われるのか

自己啓発は「怪しい」と忌避する人が一定数います。

これは「自己啓発」というジャンルの定義について問わないといけないのですが、いわゆるハウツー本、ビジネス本なんかのいちジャンルではありますが、おもに「気持ちの持ちようで人生が変わる」といったたぐいのものということにします。

 

「どうしてそうなるか、不確かなことについても、『こうすればこうなる!』といった、断定をしてくる」という意見がありましたが、異論をはさませないという点が怪しく思う、ということでした。

 

「自己啓発セミナー」とという名を聞いただけで、どこか胡散臭く感じてしまう、というのは、既に「怪しさのデフォルト」が出来上がっている状態といえるかもしれません。

 

同様に、「新興宗教」というワードもそうかもしれません。「新興宗教」の内容どうこう言う前に、その言葉が持つイメージに引っ張られているのではないでしょうか。

 

◆「怪しい」と思ったら

「怪しいと思ったら、その後どうするのか?」という問いがありました。

「関わりたくないと思う」、「解明しようと思う」の2つの意見がありました。

「怪しい」という評価は危機回避の能力だとすると、「関わりたくない」と避けるのは自然かもしれませんが、おまわりさんの行動は「解明しようとする」であることがわかります。

 

◆終わりです。

哲学カフェは2時間が来たら終わりです。話がまとまっていなくても終わります。残りは皆さんのお土産にもなります。

今回は、「怪しい」というテーマでしたが、実に様々な話題が出てきて、なかなかに盛り上がった会になりました。

「怪しい」の「怪」から連想して、「妖怪」や「怪演」などの事例から考えてみたりという場面もありました。

怪しいという言葉を考えてみると、危機回避としての「怪しい」に始まり、その「危機回避」を問うてみると、怪しいの前提となる固定観念が存在していることがわかり、その「固定観念」をさらに問うてみることで、そのなかには無用・無実な「怪しい」もあるのではないか、というふうに感じていきました。

 

以上で、オンライン哲学カフェ「怪しい」の振り返りを終わりたいと思います。

ありがとうございました。

 

では、また!