<危機回避と固定観念が相互に作用しているといえるのか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「怪しい」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆子供にあいさつをした老人が何故不審者情報となったのか?
「怪しい」についての理解が進んでいったところで、一番最初の「子供に『おはよう!』とあいさつをした老人が何故不審者情報となったのか?」という疑問に取り掛かることにしました。
「老人が子供にあいさつする行為が」普通や正しさといったことから外れている状態だとしたら、何が正しい状態だということになるでしょうか。
近所の住民が、知り合いか、それとも赤の他人か、そんな話が出てきました。
赤の他人とは話さない、というのが正しいことなのか。
「逆に子供から大人に挨拶をしたなら、怪しいとは思わないのではないか」という意見から、
「『怪しい』は受け手当人の評価だから、受け手が想像しづらいシチュエーションだなと思ったら、それは怪しい」
というふうにも考えられます。
それは、「知らない大人が声をかけてくる」という「怪しさのデフォルト」に引っ張られているのかもしれません。
「怪しさはその人を取り巻く文化・習慣が反映してくる」という意見がありましたが、怪しさが受け手の評価である以上、そうなのでしょう。
見ず知らずの他人と話すか、話さないか、それは、時代(世代)と関係があるのか、活発に話が出てきた部分でありました。
◆自己啓発はなぜ怪しいと思われるのか
自己啓発は「怪しい」と忌避する人が一定数います。
これは「自己啓発」というジャンルの定義について問わないといけないのですが、いわゆるハウツー本、ビジネス本なんかのいちジャンルではありますが、おもに「気持ちの持ちようで人生が変わる」といったたぐいのものということにします。
「どうしてそうなるか、不確かなことについても、『こうすればこうなる!』といった、断定をしてくる」という意見がありましたが、異論をはさませないという点が怪しく思う、ということでした。
「自己啓発セミナー」とという名を聞いただけで、どこか胡散臭く感じてしまう、というのは、既に「怪しさのデフォルト」が出来上がっている状態といえるかもしれません。
同様に、「新興宗教」というワードもそうかもしれません。「新興宗教」の内容どうこう言う前に、その言葉が持つイメージに引っ張られているのではないでしょうか。
◆「怪しい」と思ったら
「怪しいと思ったら、その後どうするのか?」という問いがありました。
「関わりたくないと思う」、「解明しようと思う」の2つの意見がありました。
「怪しい」という評価は危機回避の能力だとすると、「関わりたくない」と避けるのは自然かもしれませんが、おまわりさんの行動は「解明しようとする」であることがわかります。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。話がまとまっていなくても終わります。残りは皆さんのお土産にもなります。
今回は、「怪しい」というテーマでしたが、実に様々な話題が出てきて、なかなかに盛り上がった会になりました。
「怪しい」の「怪」から連想して、「妖怪」や「怪演」などの事例から考えてみたりという場面もありました。
怪しいという言葉を考えてみると、危機回避としての「怪しい」に始まり、その「危機回避」を問うてみると、怪しいの前提となる固定観念が存在していることがわかり、その「固定観念」をさらに問うてみることで、そのなかには無用・無実な「怪しい」もあるのではないか、というふうに感じていきました。
以上で、オンライン哲学カフェ「怪しい」の振り返りを終わりたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!