ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

哲学カフェに参加しました ~園田哲学Bar 「正当化」①

<判断基準の置き換えによる言い訳。>

おはようございます。ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。

 

今日書くのは、私が昨年からずっとお世話になっている、「園田哲学bar」さん。

2月の開催についてです。

 

◆哲学カフェとは?

・誰もが『対等な立場』で、テーマについて自由に話し合う場

・テーマは身近なこと。(例「お金」「愛」「子供」「嫉妬」)

・哲学の知識は不要(全くもって不要です)

・あるのは進行役と少しのルールだけ

 詳しくはHPにて。↓↓

cashewnut27.blog.fc2.com

 

場所:園田地区会館

時間:19時~21時(2時間、途中休憩有)

この日の参加人数:12名。うち進行役1名。

 

「予約不要」ですので、思いついた時に気軽に寄れます。

 

年齢層は広く20代~70代ぐらいの方まで。女性は2~3名ぐらいです。

常連さんが多く、いつも優しい雰囲気で場は進みます。

初めてでも、全然違和感なく入っていけますよ。

 

市民ホールの1部屋で、長机・パイプ椅子を並べて適当に座ります。

19時にスタートですが、仕事帰りの方も多く、途中入室される方も多いです。

持ち寄りbar(アルコール可)で、飲みたい方は缶ビールなどを持ってこられています。

 

まず、進行役が決めごとについて説明します。

 

①ここは、自分の意見を通す場ではありません。

 →結論は出しません。時間になったら終わりです。モヤモヤとしたものを持って帰れることも哲学カフェの楽しさのひとつです。

 

②他人の意見をしっかり聞きましょう。

 →他の人が発言しているときは、黙って最後まで聞き、発言したいときは挙手をしましょう。

 →他人の人格を否定するような発言は控えましょう。

 

③他人に伝わるように努力しましょう。

 →抽象的な物言いでなく、できるだけ「自分の経験」について話しましょう。

 

こちらでは、お題はあらかじめ決められていて、会の最後に次回のテーマを決めています。

 

本日のお題は「正当化」。

f:id:chikuwamonaka:20200208064019j:plain


言い訳しているようで、なんだかネガティブイメージのする言葉。この言葉からどう対話が広がったのでしょうか?

 

では、主要なトピックと印象に残った点、それに関する私の感想を簡単ですが書いていきたいと思います。

 

◆「正当化」の「正当」とは?

まず、進行役より、言葉の定義について辞書やWEBで調べた事についての紹介が少しありました。

 

言い訳、ごまかし、弁解、正しいことと違うことをした時、、いろいろなキーワードが出てきます。

 

私達は普段だいたいそんなイメージで「正当化」という言葉を使っていると思います。

人に対して使う、「お前、正当化するなよ」という批判的意見として。

自分に対して使う「自分で自分を正当化」という自己弁護。

 

文字通り、「正当化」は「正当」+「化」という構造になっており、「正当」に「化ける」という意味になります。

と、いうことは、「正当ではないもの」を「正当にしてしまう」行為であるといえます。

 

だからまずは、「正当」とは何ぞや?という検討になるのであります。 

「正しいというのはどういうことか?」いう議論になると、かなりの時間を要するので、ひとまず、「神のみぞ知る」ということになります(?)。

 

「正しい」というのは、「正しい」と判断する基準が必要なのであって、例えば、「日本の法律において」正しいのような、決めごととしてあるものや、「人の道において正しい」のように、大多数の人が正しいだろうと思っている道義的なものなどがあります。

 

しかしこれらの基準は時代や場所によって常に変化するものであり、「絶対的な正しさ」というのは存在しません。

 

だから、「正しい」というのは、いつもどれかの価値基準に照らし合わせて個々人が判断しているものに過ぎないということになります。

 

◆「正当化」のメカニズム

では、この前提に立ったとき、「正当化」はどのように言い換えられるのでしょうか?

「顧客が損をする可能性が高い金融商品を売るセールスマン」という例が出てきたので、それで説明します。

 

セールスマンは、顧客が損をする可能性が高いことを知りながら売るという、個人の正義感に反して、仕事をしました。

彼は仕事とはいえ、やっている事についていくばくかの罪悪感を持っています。

そんな時に「自分の家族が食べていくためだから」「成績を残さないと会社にいられなくなるから」といった、言い訳をします。

 

この例において「正しくないこと」は、「顧客を不幸せにしているかもしれないこと」。

それに対する後ろめたさを、別の「自分が生きていくため」といった、別な「正しさ」の基準に置き換えて、言い訳するのですね。

 

これを、「目的論」と解説してくれた方がいらっしゃいました。

「顧客を幸せにする」目的においては「正しくない」。でも、「自分の生きる糧を得る」という目的においては「正しい」。

 

では、どうして、「後ろめたい」が先に来て、「自分の生きる糧」によって言い訳せねばならないのか?考え出すと、まだまだありそうな気がします、、。

 

続きは日を改めて書きたいと思います。

 

では、また!