主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第18回「『演じる』 ~あなたは『演じている』と思っていますか?」①

<『演じている』は日常だ>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。

今回は第18回となります。

  

前回の第17回「中二病」の模様はこちら。 

chikuwamonaka.hatenablog.com

  

◆今回も「Zoom」を使いました

今回も前回同様、「Zoom」を使用。

「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。

 

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

 

今回なんと、ホストのコンピュータが開催中に2度フリーズするというアクシデントが発生しました。原因はZOOMにあるのか、自分のコンピュータにあるのか、我が家の通信環境にあるのか?次回も続くようなら、ちょっと対策を考えないといけませんね、、。

 

◆この日のテーマは「演じる」

この日の参加者は9名。時間は2時間です。

 

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)

 

今回の進行役は、私ちくわが務めさせていただきました。

 

この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた

 「演じる」

です。

では、哲学カフェ内での発言を振り返りつつ、感想とともに書いていきたいと思います。 

 

◆「演じる」って、どういうこと?

まず、とっかかりとして、辞書の定義を読んでみました。

「ある場面、状況などにおいて、ある印象を見る人に与えるように行動する」

とありました。

 

この定義からして、「演じる」とは、場面や状況によって自分の態度を変えていく、ということになります。

これは私にはとても当たり前のことのように思われ、まず最初の意見が、

「演じるとはとても日常的なことであると思う」

というものだったことからもうかがい知れます。

 

しかし、メンバーの中にはそういう捉え方ではなく、役者であったり、芸人であったり、特別な、意識的に別の人格を作り出していることを「演じる」と考えている意見も多くあり、中には、「自分は普段、『演じている』とは思っていない。」という意見もあったりしました。

 

意識的なのか、無意識的なのか、どこからが「演じる」なのか、についてのボーダーラインというか、そういうものについての考えの違いも感じるのでした。

 

◆演じているのは、どんなとき?

どこからが「演じる」なのか?の問いは、ひとまず置いといて、どんなときに「演じている」と思うのか?について、意見がちらほら出てきます。

 

子どもの前では親として、会社では社会人として、お客さんの前では営業スタイルで、上司の前では部下として、後輩の前では先輩として。

 

その場面場面で、もっというと、向き合うひとりひとりの人間によって自分の態度を演じ分けている、そんな日常が見えてきます。

 

では、私達はいったい「何を」演じているのでしょうか?

 

子どもに向かう親としては、教育者としての親、良き遊び相手としての親、というふうに場面によって、「こうするのが良い」といったふるまいを自分が考えて演じているのだろう、というふうに考えられます。

 

店員さんが、しつこく質問してくるお客さんに向かっても、「さっさと帰れよ」とは言わずに、あくまで丁寧に応対してくれるのも、「店員さんとしてのあるべき姿」を演じている結果の行動であると思います。

 

みんな、演じている際には、何らかの「あるべき姿・理想像」のようなものが基準としてそこに存在しているような気がします。

 

「その『場』や『対人間』における価値観というか、空気のようなもの」という意見がありましたが、そのような行動基準を作り出したうえで動いているという感じでしょうか。

 

◆演じるのは、どうして?

では、どうして、私達はそのような場の空気を読んで(想像して?)「演じる」のでしょうか?

そのための取っ掛かりとして、自分は

「演じていない自分というのは、どういうもの?」

という問いを発してみました。

 

「演じる」という言葉には、どこか「ほんとうの自分ではない、偽りの自分」という印象があります。

だったら、「演じていない自分」=「ほんとうの自分」ということになるのでしょうか?

 

会社であくせく働く自分が「演じている自分」だとしたら、「サボりたい。」とか「とっとと帰って屁こいて寝たい」と思うのが、「ほんとうの自分」なのでしょうか?

 

「演じていない時は、『好き嫌い』が基準になっているんじゃないか」

という意見がありました。

 

そうすると、好き嫌いや欲望によって動けるのが「ほんとうの自分」で、好き嫌いに関わらず、その場が求めることを想像して動くことが「演じる」ということになるでしょうか。

 

さておき、「演じなかったらどうなるか?」ですが、

「演じなかったら、多分えらいことになる。」という意見がありました。

自分の欲望のままに好き勝手行動したら、きっと会社はクビになってしまいます。

高級レストランにジーンズで行ったら、中に入れてくれません。

 

他にも色んな意見がありましたが、社会的に進化した人間は、どうやら演じることが当然になっていて、演じないとおそらく集団から爪はじきにされ、生きていくのが難しいだろう、ということは共通了解できたように思います。

 

◆「演じる」のは、善い事なのか?

「演じる」には、どこか抑圧的なネガティブなイメージが付きまとうものです。

 

哲学カフェはまだまだ続きますが、

時間が来ましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

では、また!

 

 

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