<「苦労」は「経験」となる>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今回は第22回となります。
前回の第21回「哲学的な本を紹介し合う会」の模様はこちら。
◆今回も「Zoom」を使いました
今回も前回同様、「Zoom」を使用。
「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
◆この日のテーマは「苦労」
この日の参加者は13名。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)
今回の進行役は、ひじき部長に務めていただきました。
私は、ZOOMのチャット画面にメモを残していく書記係を担当しました。
この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた
「『苦労』は買ってでもしたほうがいい?」
です。
「若いうちの苦労は・・・」なんて言いますが、できれば苦労はしないに越したことはないですよね、、。ではいったい「苦労」って、どんなものなんでしょうかね?
では、哲学カフェ内での発言を振り返りつつ、感想とともに書いていきたいと思います。
◆「苦労」と時間軸
「苦労」とは、文字に「苦」の字があるように、つらく苦しい感情を伴うものだと思います。苦労をしているということは、ストレスを受けているということです。
できれば、つらい事はしたくない、ストレスは避けたい、というのは人間として当然の反応だと思います。
しかし「若いうちの苦労は買ってでもしたほうがいい」と昔から言われるのは、苦労をすることで何か得られるものがある、ということでもあります。
私も中年と呼ばれる齢になりましたので、「あの時にもっと勉強しておけば良かったな」なんて振り返ったりすることはよくありますし、「あの時苦労した経験が活きた」なんて感じることもよくあります。
振り返ると苦労していたんだろうけれども、その時には苦労しているという感じではなかった
という意見がありましたが、苦労というのは同じようなことをしていてもあくまで感じるのは、個人のとらえ方次第であるとも言えます。
個人差として考えられる要因としては、体の強さとか、ストレス耐性といったメンタル面なんかが考えられますよね。
そしてもうひとつ、やっている時はそう思っていなかったけれども後で振り返るとあれは苦労だったという時間的な差というものもあるようです。
◆「苦労」は何かを得るもの
苦労を経験することでピンチの時に冷静な判断が出来る
このように苦労した「経験」は役に立つ、という意見がありました。
確かにそういう側面はありそうです。
社会人として必要とされるスキルに「困難に対応しながら前に進めていく力」というのがあります。
家庭の事情や、はたまた学生生活などで、苦しい経験をした人物が大きな仕事を成し遂げたという話はよく聞きます。
それは美談だからという側面もありますが、実際「レジリエンス」という言葉があるように、そういった「逃げない」とか「立ち直る」とかいう強さは過去の経験と相関性がある、とされている論もあります。
苦労とは、そのもの自体はストレスで、できるだけ避けたいものであることは間違いないけれども、経験を残すという側面もあるということですね。
◆自分に言い聞かせるのと人に言われるの
「今の苦労は、将来役に立つから」「明日の目標達成のための苦しみ」と自分に言い聞かせて奮い立たせる
という意見がありましたが、それとは別に
それを他人に言われるのはいい気分がしない
という意見がありました。
これはどういうことでしょうか。
「若いうちの苦労は買ってでもしたほうがいいよ」と言われて、苦労を押し付けられているだけのような印象を受けている、ということでしょうか。
価値観を押し付けられているだけ、という意見もありましたが、
自分がその苦労に「意味を感じている」かどうか、の違いでしょうかね。
「苦労」を目的化している
という意見がありましたが、まさにそんな感じでしょうかね。
と、ここまでで、苦労というものは現在と過去、自分と他人、など複数の軸で意味合いが異なってくるもののようだ、ということがわかりますが、まだまだ哲学カフェは前半戦。
まだまだ続きますが、時間となりましたので続きは日を改めて。
では、また!