<「老い」は避けたいものなの?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今回は第24回となります。
前回の第23回「『普通』って何?」の模様はこちら。
◆今回も「Zoom」を使いました
今回も前回同様、「Zoom」を使用。
「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
◆この日のテーマは「老い」
この日の参加者は9名。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)
今回の進行役は、ひじき部長に務めていただきました。
私は、ZOOMのチャット画面にメモを残していく書記係を担当しました。
この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた
「『老い』は何をもたらすのか?」
です。
アンチエイジング、老害、、何かと迷惑がられ遠ざける対象とされる「老い」ですが、ネガティブな側面ばかりではないですし、個人差はあれど誰にも等しく与えられるこの「老い」というものに、みなさんどう付き合っていくのでしょうか?
では、哲学カフェ内での発言を振り返りつつ、感想とともに書いていきたいと思います。
◆「老い」はいつ始まるの?
まずは、このような問いからスタートします。
その問いについて考えるということは、まず「老い」とは何かについて考えなければいけません。
人間は他の動物と同様、生まれて、成長して、老いて、死にます。死ぬ直前はしばしば赤ちゃんに例えられるように、誰かの世話にならなければならないほど、自分で何もできなくなるほどです。
老いは「できていたことができなくなる」現象であるという意見がありました。
目が見えにくくなる、耳が聞こえにくくなる、食べられなくなる、歩きにくくなる。
この日の参加者では、50代以上がいないと見受けたので、真に老いを実感として持っている方はいらっしゃらなかった、と思いますが、私を含め「衰え」を感じている意見はちらほらありました。
「アンチエイジング化粧品」というものが存在するように、体の機能的な衰えだけでなく、シワやシミなど「見た目が悪くなる」というのも老いの重要な側面です。
そういうふうな「老い」が始まるのはいつ?と問われると、私は30歳ぐらいからだろうと感じます。白髪は出てくるし、疲れからの回復が遅くなってきたのも30代です。
「徹夜が出来なくなる」「脂っこいものが食べられなくなる」などいろんな意見があって面白いのですが、やはり「できていたことができなくなる」という実感が大きいんだと思います。
◆「老い」と「死」
「終わり」である「死」を見据えるようになると、行動が変わる
という意見がありました。
これはどういうことでしょうか。
老いの先には当然「死」があります。
「死」については、とらえ方の違いは人それぞれですが、多くの人ができれば遠くにやりたいものです。
その「死」の前兆が「老い」であるならば、「老い」をネガティブに捉えるのは当然かと思います。
しかし、本当にそれだけだろうか?と私は思います。
「老い」に抗いたい気持ちや行動は、「死」を前提に、というよりも、それ以前の生きている時に抗うものなので、「死」とは直接関係ないものではないか、とも思うのです。
「死は別に恐れていない」と言う人が、それでも「老い」はやはり面倒なものであると言うのは決して不自然なことではないでしょう。
機能的な衰えという軸で考えれば、できていたことができなくなる、というのは以前の自分と比較しての寂しさであり、自分より若い人より(機能的に)負けてしまう悔しさ、そういったマイナスの感情が「老い」におけるネガティブな側面であるといえそうですね。
◆精神的な「老い」
前半は機能的な「老い」について語られていきましたが、こうはんは多くの時間を精神的な「老い」・・・「気持ちが若い、老けている」との比較の話に移っていくのでした。
続きはまた日を改めて書いていきたいと思います。
では、また!