ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

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主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第24回「『老い』は何をもたらすのか?」②

<成熟という言葉がいい>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。

今回は昨日に引き続き第24回

 「『老い』は何をもたらすのか?」

について書いていきたいと思います。

 

昨日は、

「老いはいつ始まるの?」

「機能、見た目の老い」

「老いとその先にある死」 

 

 

ということについて書きました。

 

◆精神的な若さと老い

「精神的な老いというものもあるのでは?」

という意見がありました。

確かに「若者らしくない発言」「年寄りみたいな考え」という言葉があります。

 

「精神の若さ」という言葉には、新しい事にチャレンジする気持ち、成長志向で前向きな気持ち、のようなニュアンスがありますよね。

 

「完成されない気持ち」「未熟さ」という表現を用いたメンバーがいましたが、そこを基準に考えると、「精神的な老い」というのは、「守りに入ってしまう」「挑戦しない」というどこか諦念のようなニュアンスが込められているように思います。

 

成長曲線の前半部分、いろんな経験を経て成長していくところが若さに例えられ、後半部分である成熟・衰退が老いに例えることが出来ます。

 

◆「足るを知る」

いっぽうで

「足るを知る」という言葉もあって、守りの気持ちというのにもポジティブに表現する言葉もある。

という意見もありました。

 

「足るを知る」という気持ちには、人間の欲は追求するときりがないということなので、どこかで「自分はこれでいい」という線引きをし、満たされた気持ちになろう、ということで、体がついてこなくなる人生の終盤にはふさわしい表現であると言えそうです。

 

しかしこれも、「年相応」という言葉もあるように、意識しすぎると却って行動を制限することになります。

老境においてなおチャレンジし続けるカーネルサンダースや伊能忠敬の例をだしたメンバーもいらっしゃいました。

 

「老害」という言葉も忘れてはいけません。

過去の価値観・体験が邪魔をして新しいものを拒絶してしまい、組織の変化を妨げる存在になってしまうことですね。

老害というものの怖さは、自分が老害であることに気づいていないことです。

 

◆背負っているものを降ろす「老い」

「もうすぐ死ぬんだから」と考えると、将来のことを考えなくてもいいし、自分のことだけに集中できるので、自由になれる

という意見がありました。

 

これは「老境」という言葉にあるように、老いの魅力かもしれません。

家族が巣立っていく、役職から降りる、というふうに、老いにともなって「荷物を降ろしていく」ことが多くなります。

 

「吹っ切れる」と表現したメンバーもいましたが、いい意味で自分に集中できる喜びという意味でしょうかね。

 

自分は40代の中盤にさしかかり、これから人生の後半戦。新しいチャレンジも楽しいですが、成熟という局面において、若い頃の自分から可能性をある程度そぎ落とし、自分に合った楽しみというものを、味わっていければ幸せだな、と思います。

 

◆終わりです。

といったところで、ほかにもまだまだ意見がありましたが、ひとまず終了となりました。

個人差はあれど誰にでも訪れるものということで、みなさん自分事として考え、多くの意見が出てきて楽しい回となりました。

 

では、また!

 

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