<けっきょく、罪は赦されたのか?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今回は第33回となります。
前回の第32回「ファッション」の模様はこちら。
◆「哲学カフェ」とは?
哲学カフェとは、おもに身近なことがらについて、みんなで自由に意見を出し合う対話の場です。
「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。
私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。
当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています(今のところ)。
◆今回も「Zoom」を使いました
今回も前回同様、「Zoom」を使用。
「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)
◆この日は「課題本を読んでの哲学カフェ」
この日の参加者は7名。時間は2時間です。
今回の進行役も、いつも通りひじき部長に務めていただきました。
私は、ZOOMのチャット画面にメモを残していく書記係を担当しました。
この日はいつもと異なり、課題本を読んで内容について語りあう哲学カフェとしました。課題本哲学カフェは昨年10月以来久々となります。
前回は藤子・F・不二雄作「ミノタウロスの皿」でしたが、今回も漫画を題材としました。
今回の課題本は、手塚治虫の名作
「火の鳥」の「異形編」
です。
<wikipediaによるあらすじ>
戦国の世(室町時代)。主人公の左近介は本来は女であったが、幼少の頃より父に男として暴力をもって育てられた。その左近介の父は応仁の乱の功績で名をあげた残虐非道の男であり、左近介は父を憎んでいた。ある日、左近介の父の鼻に「鼻癌」と思わしき症状が現れ苦しんでいたところ、それを治せるという尼「八百比丘尼」が現れた。左近介と父は、まるで老いた左近介のような八百比丘尼の姿に驚く。父に恨みを抱いていた左近介は、治療を阻止するために、寺を訪れ八百比丘尼を殺す。だが、殺害を終えた左近介は不思議な力に阻まれ、寺から出られなくなる。八百比丘尼の治療を求める近隣住民たち、さらには人外の異形の者たちが次々と寺を訪れ、左近介は心ならずも比丘尼の身代わりとして治療に従事する羽目になるが、そこから恐ろしい因果応報が左近介に巡ってくる。
では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。
※ネタバレとなりますので、ご注意願います。
◆まずは、ざっくりとした感想を
対話のとっかかりとして、メンバーより思い思いに感想を言ってもらいます。
この日は最大で7名でしたので、わりと気楽でカジュアルに発言していく感じだったと思います。
この物語の大きな特徴は2つあると思います。
1つは、主人公である「左近介」が年老いた自分「八百比丘尼」を殺すところから始まり、時間が経って自分が年老いたのち、やってきた若い自分に殺されてしまうという「無限ループ」になっているということ。
そしてもう1つは、左近介が人を殺した罪を贖うべく、閉じ込められたお寺でけが人を治療し続けるシーンで、左近介は人間以外の妖怪たちにも献身的に治療を施すというものです。
まずはこの「無限ループ」についての疑問が話題に上がります。
左近介の夢の中に現れた火の鳥は、「寺を訪れるけが人・病人を救い続けよ、さすれば30年目の日に外の世界に逃れることができよう」という言葉を発します。
献身的にすべての者を来る日も来る日も治療し続け、そして迎えた30年目の日、八百比丘尼となった左近介は解放されるのかと思いきや、結局訪れた若い自分に殺されてしまいます。
「結局、罪は赦されなかったのか?」この問いは物語の最大の焦点であり、この日も最も時間をかけて話し合われることになりました。
◆罪は赦されたのか?
これについて、メンバーからいろんな意見が出てきました。
・無限ループが終わっていない以上、結局、赦されなかった。
・1周めと2周めでは微妙にセリフが変化していて、この先まだ何周かすると、ゴールにたどり着ける、という暗示?
・結果として赦されたのだが、もうそんなことはどうでもいいと思い、自分の意思で留まることを選んだ
・火の鳥が言った「外の世界に逃れる」とは、死ぬことを指しているのでは?
私個人も、この疑問が最後まで解けることがありませんでした。
読み手によってこうも解釈が分かれるというのも、手塚作品の凄いところなのかもしれません。
当然、問いの性質からして、「これ!」といった答えのありそうなものではないというのもあります。
自分がこの物語で真っ先に受けた印象は、インド仏教の考えで、地上世界は修行の場で、輪廻しているうちはまだ修行が足りないというものでした。
地上世界でさらに精進を重ねることでこの輪廻から逃れることを目指す、このことを火の鳥は指し示しているのかな、と思ったのであります。
しかし、別のメンバーからは「永劫回帰」というニーチェの説を紹介してくれました。
これは「人生とはあらかじめ決まった映画のようなものを無限に繰り返し再生している」という考え方だといいます。
そしてその事実のもとで「またこの人生を生きてもいい」とポジティブに受け止められることができれば、目の前の一瞬を大切に生きるだろう、ということのようです。
確かに、この説は突飛ではありますが、この物語の展開と、左近介(八百比丘尼)の心境の変化がうまく説明できているような気がします。
哲学カフェはこのような新しい発見があるから、楽しいものです。
さて、当哲学カフェは、後半戦に入り、メイン以外の様々なテーマにも派生していきます。
しかしながら時間となりましたので、その模様は、日を改めて書いていきたいと思います。
では、また!