<道徳を「疑う」ことの意味>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している読書会「彩ふ読書会」の、参加メンバー同士でサークル活動として始めた「哲学カフェ」。
社会情勢を踏まえ、2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として細々と楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)
今回は、第56回開催になります。
前回の第55回開催の記事はこちらになります。
◆「哲学カフェ」とは?
哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。
「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。
私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。
そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。
当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。
◆「Zoom」を使っています
今回も、「Zoom」を使用。
「Zoom」はすっかりおなじみですがとても使いやすいオンライン会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
◆この日のテーマ
この日の参加者は9名。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
今回は、いつもの通りひじき氏進行役、私ちくわが書記役でやっていきました。
この日のテーマは、メンバーの推薦により選ばれた
「人はなぜ道徳的にふるまうのか?」
です。
「道徳」というと、だいたい小学校で習う教科として初めて知り、大人になるまでいろんな形で教えられてきます。でも、その道徳っていうものの正体はいったいどういうもので、なぜ自分たちは無意識的なレベルで道徳に染まっているのでしょうか?
では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。
◆「道徳」に染まっているということはどういうことか
まずこのテーマが出てきたのは、メンバーの冒頭の問いになります。
困っている人がいる時はもちろん、あるいは普段の何気ない行動の中でも、「道徳の意識」が顔を出してきて、もっと自由にふるまってもよいはずなのに、自分はなぜ道徳的にふるまおうとしてしまうのか?
確かに子どもの頃から「道徳」の授業を受け、またテレビアニメなどからも、道徳的行動をは美しいものだと教えられて大人になります。
メンバーの問いは、「もっと自由にふるまってもよいはずなのに」という点にあります。確かに、困っている人を自分が助けないという選択肢があっていいはずだし、死んだメダカを丁重に弔わなくても自分に大きな影響があるわけではありません。
しかし意識的なのか、無意識的なのかわからないけれど、どうしても行動の前に道徳的判断を伴ってしまう。そんな自分の日常を疑っているところにあります。
◆なぜ、道徳を疑わなければいけないのか
しかし別のメンバーから、「なぜ『道徳的に考えるのか』を疑う必要があるのか?」という前提に対する問いがあがりました。
道徳的行動を取っていれば生活に支障はなさそうだし、わざわざ道徳に反する行動を考慮する必要はあるのだろうか?ということで、これもある意味もっともな意見です。
しかしこれは「なぜ哲学カフェをするのか」と同じ意味で、疑うことが考えを進める手段であります。
もし、疑った結果として、道徳的行動はやはり人間として理にかなっている、となればそれでよいと思うし、疑った結果肯定することと、疑わずに肯定することでは大きく意味合いが違ってくると思います。
そして別のメンバーの意見「その道徳が間違っているとしたら?」ということもあります。
「道徳は常に正しい」ということを、「神は常に正しい」という例に置き換えると、宗教の暴走を想起することができます。
◆道徳は相対的なものか?
「道徳は相対的なものなのか?」という問いがありました。
哲学カフェでは価値観についてよく話題に挙がりますが、「絶対的に正しい」というものは多くの場合否定されます。ほとんどの価値観は時代や地域を変えてみれば当てはまらないことが多いからです。
例えば女性の地位に関することとか、戦時における道徳などです。
しかし別な意見として、「限定的な条件においての道徳によってそれを否定することはできないのではないか」というのがありました。
言い換えると、戦争において「人を殺すことが正義」は成立しているように見えますが、実のところ兵士は「人を殺してはいけない」という気持ちを捨てきれないまま無理に「別な正義」を信じようとしているだけかもしれないということです。
だとすると、やはり根底には「人を殺してはいけない」というような道徳はある程度普遍的であるようにも思えてきます。
◆道徳とルール
そうすると、道徳には変化するものもあれば、ある程度普遍的なものもあるというふうに考えられます。
ではその普遍的なものとそうでないものの違いはなんでしょうか。
「ルール」や「法律」といった言葉が出てきたので、こちらの側面から考えてみることになりました。
長くなってきましたので、続きはは日を改めて書いていきたいと思います。
では、また!