<「嫌い」という感情の理由付け>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「軽蔑」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・軽蔑する行為
・軽蔑とは、人に対する嫌悪感情+さげすむ気持ち
・軽蔑は主観的か、客観的か
◆軽蔑と差別の違いは?
「軽蔑」と「差別」の違いは?という問いがありました。
これまでの具体例や話しの内容の中に、なんとなくヒントがありそうな気がしましたが、そこに話題が移ります。
どちらも、「自分とその人は違うんだ」という感情、相手を見下す気持ち、という意味ではよく似ています。
「差別は、すでに定まっているもの」という意見がありました。
確かに、人種差別や身分の差別は自分が決めたわけではなく、以前からあってその価値観を植え付けられており、それに対する嫌悪感というのが起こらない場合がありそうです。
そう考えると、差別は社会的な問題、軽蔑は個人的な問題といえるかもしれません。
◆差別は軽蔑から始まる?
「では、差別はどこから始まるのか?」という問いがありました。
社会の問題とはいえ、社会は人の集まりなので突き詰めると人間関係の問題になります。ということは、差別は、軽蔑から始まっているのでは?という仮定になります。
「脅威への対策では?」という意見がありました。
人種、民族、男女の差別は、時の支配的な人物が、その地位や財産を脅かす者に対し防衛する目的で差別を設定しているのでは?という説です。
確かに一理あります。移民に対する差別などは、元の国民が職を奪われる脅威に対し、移民が起こしたなにかの事件を過大に批判したりして起こったりします。
◆地位が上の人に対する軽蔑
「『そうなりたい』と軽蔑は表裏一体?」という意見がありました。
お金持ちに対して、「お金を貯めこむのは良くない」と軽蔑する感情。「金持ちは天国に行けない」なんて教義もあったりします。
そこには「嫉妬」の感情があるのではないか?ということです。
「嫉妬」から「軽蔑」へ。なるほどこれはある気がします。
言い換えると、「上のもの」を「下のもの」に捻じ曲げる感情。
軽蔑ってやつは、なかなか奥が深い、、。
ただ「嫌い」という感情にはじまり、それに対して理屈をつけて、自分を正しい、相手を間違っていると区別ししまう、そんな構造だということがわかりました。
◆終わりです。
哲学カフェは、時間内に結論をまとめるということをしないので、2時間が来たら終わりです。
軽蔑というものの正体、「嫌悪感」や「差別感情」とはどう違うのかについて、色んな意見が出てきて、さらに深めていった、なかなか充実した対話になったのではないかと思いました。
以上、今回の哲学カフェの振り返りを終わりたいと思います。ありがとうございました。
では、また!