ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

青空哲学カフェ第4回「休み」①

<休日に「何かしないと」の「何か」の基準>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として60回を超えるほど回を重ねてこれましたが、オフラインの集まりとしては、感染状況が落ち着いたタイミングで、これまで野外で3回実施してきました。

 

今回、無事第4回を迎えることができました。

とってもお天気も良く、日なたでは暑いぐらいの陽気でした。

 

前回の第3回の記録はこちらになります。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。

 

◆「青空哲学カフェ」はピクニックからスタートします。

いつも、青空哲学カフェは、ピクニックからスタートします。

12時に集まり、場所を探し、座ります。

そして持ち寄った食事を思い思いにとります。

今回の開催場所は大阪城。

 

お濠を通り抜けて、城内へ。


たどり着いたのは、天守閣間近の庭園。

 

とっても清々しい青空のものと、場所を確保し、

ランチの後、哲学カフェスタートです。

 

◆この日のテーマ

この日の参加者は4名。時間は2時間です。

青空哲学カフェでは恒例となりつつありますが、今回も例に漏れず雑談が盛り上がりスタート時間が30分ぐらい押してしまいます。

 

しかしながら、今回は雑談の内容が、推しのアイドルグループの話題から、大河ドラマだとか歴史小説だとかの話になり、そこから休日の時間の過ごし方というふうに、うまく落語の「枕」のような役割を果たしていました。

 

そうです。この日のテーマは、

 「休み」

でした。

 

それぞれの「休み」に対する考え方、「休日」なのに休んでない人、「休みを充実させないと」という人、そんなこんなを気軽に語り合いたいと思いました。

 

では、実際出てきた意見と感想を簡単に書いていきたいと思います。

 

◆「休み」と「休日」の違い

まず、「休み」と言っても、それは「休日」を指すのか、体を「休める」ことを指すのか、によっても違ってくる、というところから対話はスタートしました。

 

「休み」なのに「休めて」いない、みんなのそういった現象は、まずここを解きほぐすことからです。

 

①「仕事」>「休日」の人=休日は体を休める。

②「仕事」<「休日」の人=休日こそが本番!

というある意味鋭い、意見がありました。

 

ゴロゴロしていたいお父さんと、遊びに行きたい子供たちの構図が思い浮かびます。

家族旅行から帰ってきたら、どっと疲れて、次の日に会社で「いやー人が多くて疲れただけですよ」なんて言う、あのお決まりのやつです。

 

◆ゴロゴロできるのは何時までか

「布団でゴロゴロできるのは、何時を過ぎると後悔や罪悪感が出てくるのか?」

という、面白い問いがありました。

 

夕方になり日が暮れても、「あとまだ5時間ある!」と開き直る、ツワモノもいました!

 

「ではここでいう、後悔や罪悪感とは何なのか?」

という問いになっていきます。

休みの日にはどこかにお出かけしたりしなくてはいけなくて、家でゴロゴロしていることは罪なのか?ということです。

美容院で「ゴールデンウイークはどこに行くんですか?」と聞かれて嫌な気持ちになる(人もいる)、あれです。

サザエさんが始まって、もう日曜が終わるのに、「何もしなかったなぁ」、と切ない気持ちになる、あれです。

 

「とっても天気がいい日ほど、外に出ないことに罪悪感があるのはどうしてか?」

という問いもありました。

 

◆何かしないとの「何か」とはなんなのか?

「何かしないと罪悪感」の「何か」とはなんなのか?ということです。

 

「新しいこと」「変化」といった意見がありましたが、散歩でも行ったことのないルートを歩くとか、新しいショッピングモールに行ってみるとか、なんかそういったものってあります。

 

ではなぜ「新しいもの」を求めるのでしょうか?

狩猟・採集本能という言い方もできますが、いっぽうで新しいことはストレスにもなります。

そこの葛藤については、もっと考えることができそうです。

 

そして、「何か」と「何かでない」の違いは?という問いも生じます。

「『何もしていない』ということはほぼないはず」という意見もありましたが、たしかに、カップラーメンを食べるは「何かしている」ではないのか?散歩なら「何か」したことになるのか?布団の中でスマホゲームしているのは「何か」していないのか?

 

外に出る、体を動かす、生活のルーティンではない、、この辺りに落ち着いたでしょうか。

 

◆「タイパ」という流行語

休日に「何かしないと」を考えるにあたり、「タイパ(タイムパフォーマンス)」という言葉は連想されてきます。

 

もう最近、この言葉が自分の中でかなりブームになっています。

「タイパ重視」を考えることは、問いの宝庫だと今思っていて、タイパ重視の背景はひとつではなく、ほんといろんな社会的要因が込められているような気がしています。

 

ちょっと長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

まだ続きます。

 

では、また!