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旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

今日が人生最後の日だと思って生きなさい 小澤竹俊

今日が人生最後の日だと思って生きなさい

NHK「プロフェッショナル」にも出演されていた、「在宅ホスピス」という仕事をされ、何千人もの末期患者を看取ってきた小澤氏が、患者から学んだ数々の大切なことについての書。

 

「もうすぐ死ぬ」という究極の苦しみに、医者は全く無力である。

しかし、無力だからこそ、じっと側にいて、話を丁寧に聞き、苦しみを共に味わうこと。

苦しんでいる人は、ただ相手が「わかってくれている」と思えるだけで気持ちが落ち着くもの。

 

「相手の話を丁寧に聴く」というのは、意外に難しい。

「傾聴すること」の大切さは自己啓発書の王道だが、ことホスピス患者には「アドバイス」や「一般論」は、全く必要ない(はず)。

ただ聞いてあげること。話したいように、話してもらうこと。

そうか、それが「無力だからこそ、出来ることがある」ということなのだ

 

死を間近にした患者が揃って子供らに遺す言葉がある。「勉強はそこそこでもいいから、人に愛される人間になってほしい」とか、「周りの人と支え合って、生きてほしい」という内容のことだ。

高い地位を得た人、多くの財を成した人に特に多いという。

 

人は他人と関わり合わずには生きていけない。

「生きる喜び」はつまるところ、「社会の中で自分が貢献できたと思える事」なのだろう。

自分も40代に入り、自分の事よりも他人の事を気に掛ける時間が増えてきたと思う。決して「承認欲求」ではない。むしろアドラーのいう「貢献感」というやつではないだろうか。若い頃にはあまり無かった大切な気持ちだ。

 

人間として究極の尊厳、それは「明日への希望」を持てることだという。

絶望の中でも、希望が残されている事を、絶対に忘れさせないことが大切だという。

これは、ヴィクトール・Eフランクルの「夜と霧」だ!

明日何をしようか、来年はどうしていたいか、将来のありたい姿、普段当たり前のように考えること、それこそが何物にも代えがたい、素晴らしいことなのだ。

 

死は誰にでも例外なく訪れる。身近な人がそうなった時、自分がそうなった時、このように穏やかに過ごせるだろうか。

「最期のとき、愛する妻の手を握っていたい」。と思った。

果たして、どっちが先に死ぬ??