<哲学カフェとはどういうことか?>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
今日は、私が哲学カフェに興味を持つようになった一冊を紹介します。
そうすることで、もう一度「考え」直したいと思います。
「考えるとはどういうことか ~0歳から100歳までの哲学入門」 梶谷真司
内容紹介(Amazonより)
《哲学者の名前が1人も出てこない哲学入門! 》
「よく考えろ」「考えることは大事」と言われるけど、
「考える方法」は誰も教えてくれなかった――。
「よく考える」ためには、
ひとり頭の中だけでモヤモヤしていてもダメ。
人と問い、語り合うことで、「考え」は広く深くなる。
その積み重ねが、息苦しい世間の常識、
思い込みや不安・恐怖からあなたを解放し、
あなたを自由にしてくれる――。
対話を通して哲学的思考を体験する試みとして、
学校や地域、企業でも注目の「哲学対話」。
その実践から分かった、難しい知識の羅列ではない、
考えることそのものとしての哲学とは?
生きているかぎり、いつでも誰にでも必要な、
新しい哲学の始まりです。
國分功一郎さん推薦!
「この本は皆で哲学の生まれ故郷に行ってみようという誘いである。
私たちの社会はあまりに多くの問題を抱えている。
だから一人一人が哲学することがどうしても必要なのだ」
◆「知識」ではない、「体験」としての「哲学」
まず、私が参加している「哲学カフェ」のような対話の場においての「哲学」は、
ソクラテス・ニーチェ等先人の考えを「知識」として検討し合うようなものではありません。
著者の言葉を借りれば、
「体験としての哲学」、もっと言い換えれば「考えること」そのものだといいます。
さらに、「考えること」とは、「問い、考え、語り、聞く」ことになります。
◆ふだん教えられる「考えなさい」は「考えること」なのか?
学校で「考えてみよう」といえば、「正解を出すまでの過程」のことを指すことが多いように思います。
お母さんが、子供に、「どうしたらいいか考えてごらん」と言うのは、あらかじめ決まっている解決法に導くための問いかけですよね。
これらは、その場にふさわしい問題解決の選択肢を問うているのであって、ここでいう哲学的な「考える」とは異なります。(いい悪いは別として)
◆哲学対話における「考える」とは?
考えるためには、「自由」があることが、重要です。
「自由」とは、遠慮なく、「空気を読む」ことなく、自分の思ったことを発言する安心感です。
普段、ちょっとわかりにくかったことがあっても、「はいはい、」と言って分かったように話を進めること、ありますよね。
「ハイ分かりました」という返事は歓迎されても、質問は歓迎されない事が多いですよね。
「分かりにくかったので、もう一度言ってください」とは、あまり言えないですよね。
でも、そこで敢えて「もう一度お願いします」と問うていいのが、哲学対話です。分かるまで、問うていいのです。
「あなたは、聞いていなかったのか?」とか、「ものわかりの悪い奴だな」とは、思いません。
ちょっと引っかかったこと、純粋に聞きたい事を、遠慮なく聞いていいのです。
◆実際の哲学対話でのポイントは?
遅くなってきたので、次回に書きたいと思います。
では、また!