<「イメージ」を「体験する」>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
今日書くのは、参加3回目となる、「こうべふらんす哲学カフェ」さんです。
前回のレポートはこちらです。
◆哲学カフェとは?
・誰もが『対等な立場』で、テーマについて自由に話し合う場
・テーマは身近なこと。(例「お金」「愛」「子供」「嫉妬」)
・哲学の知識は不要(全くもって不要です)
・あるのは進行役と少しのルールだけ
主催者のブログです。↓
場所:cafe Rippleさん
時間:19時~21時(2時間、途中休憩有)
「予約不要」です。
月に1回のペースで開催されています。
今回の参加人数:12名。(男性8名女性4名)うち進行役1名。
年齢層は広く20代~70代ぐらいの方まで。
今回は哲学カフェ初体験の方も2名いらっしゃいました!
こちらのカフェは、開放的で広くてオシャレなんです!
場所はトアロードの中という繁華街なのですが、平日の夜のカフェということで人も少なく、周囲に遠慮する必要もあまりないのがいいですね。
このこうべふらんす哲学カフェ、主催の方が、安心して話せる場を一生懸命作っておられる姿が、とても素敵だと思っています。
さて、私は始まる前にコーヒーとサンドイッチ(おいしいです!)を注文し、 食べながらの参加となりました。
◆では、スタートです。
ここでちょっとしたハプニング。
定刻になって、さあ始めますという時に、主催のjuperyさんが、隣の私につぶやきます。
「ちくわさん、今日進行やってみます?」
「えっ!?」まさに降って湧いた話で、ちょっと混乱しましたが、テーマについてあまりイメージが持てていなかったので、ちょうど皆さんの話をじっくり聴かせていただくのもいいかなと思い、ドキドキしながらお引き受けすることにしました!
今日のテーマは「実感」なのに、進行役として全然「実感」がわかないまま、今回の哲学カフェがスタートしたのでした。
まず、主催者から決めごとについて説明があります。
こうべふらんす哲学カフェのルールです。(随時改訂していくそうです)
①タブーなし!
②否定ではなく、「なぜちがうの?」と問い掛けて。
③お互いに問いかけをどんどんする
④知識より自分の経験で
⑤人が話している間に手を挙げてもOK
⑥他の人が手を挙げても、あわてず最後まで話す
⑦聞いているだけでもいい
今回のテーマは、「『実感』とは何か 〜生きている実感&others」
でした。
「ふとしたきっかけに実感する」「いまいち実感がわかない」などと「実感」という言葉は日常的に使います。
「実」際に「感」じると書く、この「実感」。副題の「生きている実感」と併せて、この正体に迫っていきたいと思います。
◆「イメージ」を「実体験」する
ということで、口火を切っていただく方を待ちます。
最初に出てきたのは、
・「実感」はすぐにはわいてこない。
そうそう。オリンピックでメダル取った人が「まだ全然実感わいてないです」って言います。
それで、後になって、友達からメールがたくさん来たり、会う人に「おめでとう!」って何度も言われているうちに、実感がわいてくるんですよね。(自分はそんな経験ないけど)
そして、その次の意見が、もうほとんど核心を突いているんじゃないかと思いました。
・対象への「イメージ」があって、それを「実際に経験」してみたとき。
そうなんですよね。
言葉にすると解りにくいかもしれませんが、例えば「社会人になる」を例にあげます。
なる前は、「働いて給料をもらう」「身の回りのことは自分でする」「何だか大変そうだな」などの自分なりの「イメージ」って持っていますよね。
でも、実際社会人になってみて、イヤなことがたくさんあったり、責任を果たす満足感があったり、家事ってこんなに面倒だったのか、などと初めてその大変さに気づく、これが「実感」だと思います。
◆「実感」は遅れてやってくる
・夢中で取り組んでいる時は、感じないが、ふっと落ち着いて振り返った時、ああすばらい時間だったな、と感じることがある。
こんな意見がありました。
うしなってはじめて解る親のありがたみ、などと言いますが、改めて、振り返って思いをはせた時、あれはこうだった、というのも「実感」ですね。
◆生きている実感
そして、今日の副題である「生きている実感」にも話は及びます。
・命と隣り合わせの冒険をしているとき、生きていることを実感する人種がいる
という意見が。
あー、わかります。冒険記でよくあります。
「なぜ、冒険をするのかとよく聞かれますが、冒険は生きていることそのものであり、なぜあなたは息をするのかと聞かれるぐらい意味のない質問である」というのを読んだことあります。
つまり「死」が視界に入っていることによって、「生」を確認することができる、という論理ですね。
日常生活では、「死」は簡単には見えてこない。だから「冒険」は「生」を実感する手段なんですね。
◆生きていることを実感できないのはどういうときか?
こんな問いがありました。これに対し、
・誰にも認めてもらえないとき
という意見が出てきました。
ああ、そうか、誰ひとり相手にしてもらえないのは、社会的な動物である人間にとって「死」と同義かもしれない、と気づきました。
リストカットしてでも、自分のことを見てほしい。そんな例もありますよね。
逆に言うと、「生きている実感」って、「自分が社会の中で認められている状態」が重要な要素ではないでしょうか。
◆腹が立って怒っている時に、生きていることを実感する私
こんな意見が、意外とプチ・カウンセリング大会のような盛り上がりを見せました。
何故、「怒っている」が「生きている実感」なのか。
いくつか意見が出てきまして、どれもそれなりに納得できるので面白かったです!
・自分の意見を通したい!という欲望を満たす。
・普段あまり怒れないからたまに起こると気持ちいい(抑圧からの解放)。
・怒って興奮状態になるのが気持ちいい。
社会的な充足と、身体的な充足、両方あるようですね、、。
◆休憩です。
ようやく進行役としての「実感」がわいていたところで、時計を確認して、1時間。ここで休憩を宣言します!
サンドイッチの残りを食べて、トイレに行って、前半のまとめをして、と。
更に盛り上がった後半戦はまた日を改めて。
では、また!