<実感はきわめて個人的なもの>
こんばんは。ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
今日書くのは、参加3回目となる、「こうべふらんす哲学カフェ」さんです。
昨日の続きです。昨日の記事はこちら。
今回のテーマは、「『実感』とは何か 〜生きている実感&others」 でした。
私ちくわが進行役を務めさせていただくことになり、前半の1時間を終えました。
◆前半のまとめです。
・対象への「イメージ」があって、それを実体験していくことによって、「実感する」ことができる。
・「実感」は遅れてやってきて、それは落ち着いて振り返ったときに多い。
・「生きている実感」は死と隣り合わせの時に訪れたりする
・誰にも認められないとき、「生きている実感」をなくす。
・思いっきり自己主張するのも、「生きている実感」。
・どれだけ説明を聞いても、自分で見たり聞いたり体験しないと「実感」できない。
こんな感じで、「実感する」のイメージがある程度見えてきたかな、っていう感じでした。
◆「実感」はきわめて個人的なこと
こんな意見から後半はスタートします。
それはつまり、同じ体験をしても、人それぞれ感じ方は全然違うということ。
例えば「雪が降った」という現象はひとつですが、初めて雪を見てテンション上がりっぱなしの人や、ああ今年の冬は寒いなあと予報を実感する人、など実感はさまざまです。
ひとつの現象に対し、それぞれがあらかじめ持っているイメージが違うから、実感の内容はそれぞれ違って当然ですよね。
◆対象に興味をもっているかどうか
「実感」に個人差があるのなら、その個人差の「要因」は何だろうという問いに対し、
「関心」「興味」「自分の近くか」というワードが次々と出てきます。
広島カープがリーグ優勝した3年前、お膝元では歓喜に包まれましたが、その中でも25年間待ち続けていたオールドファンの実感はひとしおでしょう。
一方で「自分に関係ないや」と冷めて見ていた人もいたでしょう。
ましてや遠方に住む方は多くが「ふーん、よかったね」ぐらいだったかもしれません。
◆経験と実感
・普通のことを「普通じゃない」と実感する時がある。
こんな意見がありました。
災害で暮らしが不自由になったとき、家族が離れ離れになったとき、
いままで当たり前にやっていたことが突然できなくなり、その当たり前がどんなにありがたいことだったのか改めて「実感」することがあります。
病気をして初めて実感する健康の大切さ、などもそうでしょう。
・経験を重ねると、実感しないようになる
こんな意見に補足されますが、最初はすごくありがったがっていたことも、慣れてくるとありがたいと思わなくなります。
でも、ふとしたきっかけで、それを失ったとき、それがありがたかったことを「実感」します。
朝起きたこと、今日も変わらず日常があること、仕事に行けること、家族がいること、いつもいつもとはいいませんが、改めて思いを馳せる時間をときどき作り、「実感」しよう、と強く思いました。
◆終わりです。
21時になり、2時間が経過したので、出てきた意見のまとめを話させていただき、皆さんに少し感想をうかがい、哲学カフェは終了です。
進行役については、まさに実感がないまま終えたのでしたが、主催のjuperyさんにねぎらいの言葉をいただき、無事に終えたことを実感するのでした(笑)。
juperyさん、当日参加の皆さん、本当にありがとうございました(礼)。
今回の「実感する」は最初は難しいテーマかと思っていましたが、前回の「感動する」同様、きわめて身近なことがらでありながら、各人の持っている意味がバラエティに富んでいて、それでいて広すぎず、哲学カフェとして盛り上がるテーマだったと思います。
今回のレポートは以上となります。
今年もあと少し、私も今週末の彩ふ読書会哲学カフェ「イロソフィア」が最後になるかもしれないですね。
では、また!