<神は沈黙する。>
私ちくわは関西を中心に活動している読書会、「彩ふ読書会」に、
18年5月からサポーターとして活動しています。
18年12月より始まった京都開催のサポーターリーダーとして、日々お手伝いさせていただいています。
彩ふ読書会の目的は「本が好きな方の居場所作り」です。
「家庭でもない、職場でもない、第三の場所」をコンセプトに、色んな価値観を持った方々が集まり、意見を交換し合うこと、また空間を共有しあうことで新しく生まれる何かを楽しもう、という集まりです。
ジャンルは問いません、いい意味でバラけていて、「何でもアリ」なので、男女問わず、また若い方から年配の方まで、気軽にアットホームな雰囲気で、リピーターさんも多数いらっしゃいます。
また、「皆で作っていく読書会」というのも魅力です。私のようなサポーターだけでなく、リピーター参加者の方に進行役や会場セッティングを手伝ってもらいながら、運営しています。
12/15(日)は京都開催でした。。
午前の部:課題本読書会 「沈黙」遠藤周作
午後の部:推し本読書会
夕方の部:彩ふ読書会京都1周年パーティー
先月は借りることができなかったのですが、今月はいつもの「SAKURA CAFE」さんに戻ってきました。
サポーターとしてほとんどの開催のお手伝いをさせていただき、ようやく1年を迎えました。
この日は推し本披露会、課題本読書会に加えて、「京都1周年記念パーティ」が開催されました!
パーティーの模様は改めてレポートさせていただくとして、読書会の模様からご紹介したいと思います。
(早速、パーティ参加者で神戸サポーターでもあるmomomotokazuさんが書いていただいてますので、興味のある方はこちらをご覧ください。)
◆午前の部は「課題本読書会」
本日午前の部にお集まりいただいたのは25名。男性15名、女性10名。
今回はテーブルを3つに分けました。
開始時刻の10:40になりますと、司会者より挨拶・案内があります。
その後、進行役にバトンタッチし、読書会がスタートです。
今回の課題本はこちらの名作文学です。
「沈黙」遠藤周作
<内容紹介:amazonより>
「転びキリシタン」もまた、「神の子」なのか?
カトリック作家が描く、キリスト教文学の最高峰。
島原の乱が鎮圧されて間もないころ、キリシタン禁制の厳しい日本に潜入したポルトガル人司祭ロドリゴは、日本人信徒たちに加えられる残忍な拷問と悲惨な殉教のうめき声に接して苦悩し、ついに背教の淵に立たされる……。
神の存在、背教の心理、西洋と日本の思想的断絶など、キリスト信仰の根源的な問題を衝き、〈神の沈黙〉という永遠の主題に切実な問いを投げかける長編。
◆まずは、それぞれの感想から。(注意:ネタバレを含みます)
では、読書会スタートです。
まずは、簡単な自己紹介の後、ひとりひとり時計回りで大まかな感想を言っていきます。
・こういうラスト(背教→定住)になるとは予想していなかった。
・自分の信じているものから何もフィードバックがないのは辛いだろう
などなど、どうしても主人公が宣教師ロドリゴなもので、彼の目線で読み進めてしまいますが、皆さんの話を聞いているうちに、
「登場人物それぞれにフォーカスを当ててみれば、それぞれに事情があってそれぞれ理解できる」という思いになってきたのです。
皆で読みなおすと、自分ひとりでは決してできない読書体験ができたという、思い出深い回となりました。(課題本も良かったのかな)
中でも話題が集まった3人の登場人物についての記事を書いていきたいと思います。
表題の人物は、参加者の方があてていただいた人物モチーフです。
(なるほど、おそらくそうなのでしょう)
◆筑後守イノウエ =総督ピラト
先に派遣されていた、「あの」フェレイラ師を棄教させたと恐れられ、キリシタン弾圧の中心的人物とされています。
しかし、彼のやり方は極めて冷静かつ合理的でした。列強がキリスト教布教とともに近隣国を植民地化していることを、日本でも当然知っていたことでしょう、
そんな深刻な脅威から身を守ることは当然であり、イノウエも国内法に則って事を進めているだけ。
そんな時代の日本にわざわざ入ってきて無理に布教をしようとした、宣教師たちのほうが冷静に考えておかしい、というご意見は、もっとも理解できてしまうのでした。
◆キチジロー =ユダ
どうしても語らずにいられない、どうしようもない奴。
ロドリゴの通る道に最初から最後まで付いてきて、彼の通った後、いつも幾人かが死んでいく。そんな罪作りな存在。
その場しのぎで仲間を裏切り、結果として誰かが死んだことを嘆き告白する。
もっとも人間臭く、人間=罪作りを象徴させる存在でした。
◆ロドリゴ =キリスト
ロドリゴは決して悪い人物ではないです。責任感も強く、命を賭して日本に渡ってきた彼に尊敬すべき点はいくつもあります。
しかし、しかし。
・その善意や責任感はキリスト教徒以外にとっては、どうだったのか?
・当時のキリスト教は異教徒を見下していたところはなかったか?
・キリスト教を布教し、貧しい農民を救ってあげなくては!っていうのがエゴであるように読めたし、根本的な解決策になりえなかったのでは?
・教会内で育ち、他の世界を知らなかったたのか?
・全くの「善意」として行っている彼の言動が、「余計なお世話」になっていないのか?
こういった感想が、そのまま遠藤周作が伝えたかったことではなかったでしょうかと思います。
宗教というものが弱い立場の人の心の支えになることはありますが、内輪の価値観に凝り固まってしまい、他の価値観を疎外してしまうことは、現代でもよくありますよね。
ロドリゴは棄教こそしましたが、日本に定住しその後人民のために長く働いた主人公は、それでよかったのではないか、と考えるのです。
フェレイラをはじめ、イノウエや通訳と語り合う中で、教会の掟よりも、自分の価値判断を持って行動を取った結果のラストであるならば、それはハッピーエンドなのではないのでしょうか、という風に読み解くことができたのでした。
◆最後に「沈黙」とは?
この本のタイトル「沈黙」について、明快な意見がありましたので、最後に紹介して午前のレポートは終わりにしたいと思います。
神は「沈黙」しているって、そんなの当たり前じゃん。何を期待してるの?
午後以降ののレポートは、日を改めて。
では、また!