<「自分」は他人との関わりから気づく?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
着々と回を重ね、今回が4回目となります。
第3回「良い嘘/悪い嘘」の模様はこちら。
◆今回も「Zoom」を使いました
今回も前回同様、「Zoom」を使用。
「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリのようです。
ここのところすっかり有名になりましたね。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
音質もクリアでノイズやハウリングもほとんどなく、良いですよ。
◆この日のテーマは「『自分』って何?」
この日の参加者は10名。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)
今回進行役は部長のひじきさんにお願いし、私は書記を務めさせていただきました。
この日のテーマも、開始前にメンバーから提案のあったもので、こちらです。
「『自分』って何?」
これから書くことのほとんどは参加者でてきたから発言ですが、少し私の感想を交えてその模様を書いていきたいと思います。
まず、いつものように、お題を出されたかたに、出題の意図を聞くところからスタートしました。
・「自分」というのは、「他人」とは全く違い、どこか絶対的な存在のように思う。
・でもこの絶対的な「自分」という感覚は、いつの間に身にくのだろう?
という疑問からでした。
うわ、初球から剛速球を投げ込んできた!と思いました。
いつもは「その言葉から来るおおまかなイメージ」を誰かが話し、それをだんだん掘り下げていくようなかたちで進んでいくのですが、この日はいきなり深いところからのスタートとなりました。
しかし、さすが、慣れてきたメンバーだけあって、こんな剛速球も柔らかくミートしていくのです。
◆「自分」は他者との関わりにおいて形成される
赤ちゃんの頃はさすがに「自分は赤ちゃん界で一番になるぞ!」といった競争心を抱くことも無く、目の前の母親やそのおっぱいといったものにただただ「反応」しているだけでしょう。
しかし言葉を理解し話せるようになる幼児期になると、「ケンタ(名前)がやるの!」というように、いつも呼ばれている「ケンタ」という名前は自分を指しているという理解とともに、「他の人ではなくて自分がやりたい!」という自己主張ができるようになります。
「ケンタ」=「自分」であるということは、当のケンタ君にとっては、いつも自分に向かって呼ばれている名前だから、覚えたのだろうと思います。
しかしそれでは、ケンタであると認識するところの「自分」はいつ生じたか、の説明になりません。
ややこしくなってきましたが、「自分」というものを認識していく過程は、まず自分を認識するのではなく、母親のような「他人」や目に見える「外の」ものから認識していくにつれて、どこかの時点で自分も同じ人間であって、他人ではないもの=「自分」として認識していくのではないか、という考えです。
いや待てよ、「自分」は周囲の状況から「自分」であると認識する前に、その認識される「自分」というものが存在していないといけないわけですよね。
これって、どこまでいっても答えがわからないんじゃないか、という気がしてきました。
そして、自分が「母親と同じような『人間』のひとり」であると、幼児が認識するようなものなのでしょうか?
のっけから剛速球であるといった意味はこの辺にあって、こういった問いは、問えば問うほど難しくなってきて、なかなか答えのだせるようなものではありません。
重要なポイントであることは確かなのでこのまま続けてもおもしろいのかもしれませんが、ひとまず別のトピックも話し合いたいので、話題を変えます。
◆自分が感じるように、他人が感じることを自分で感じることはできない。
とてもおかしな文章になりましたが、これは参加者の中からでてきた発言を自分なりに書いてみたものです。
どういうことかというと、自分は見たり聞いたり五感を使って世界というものを知覚しています。
でも、自分以外の他人が見ているものや聞いているものは何ひとつ自分では知覚することができません。
これを感じたとき、「自分」と「他人」は違うんだということを強烈に理解した、ということなんですね。
自分と他人はまったく同じ人間という生き物である(ように思う)にも関わらず、自分と他人とは決定的に違うことはたくさんあります。
例えば他人が目をつぶっても何も変わらないけど、自分が目をつぶったら世界は一瞬で無くなってしまいます。
他人は死ぬけれど、自分が死ぬことを自分で知ることはできません。
これもどこかの時点で何となく気づきます。このメンバーのようにはっきりと明言できる人は少ないとは思いますが。
◆まだまだ始まったばかりです。
自分を「自分である」と認識する過程について話し合っているだけで、時間がけっこう経過してしてしまいましたが、それと前後して、その他のトピック、「パーソナリティはどうやって作られていくのか?」とか、「自分らしさってどういうこと?」などについても、かなりおもしろい展開をみせることになります。
長くなってきましたので、続きは日を改めて。
では、また!