ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

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主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第5回「ルールと自由」②

<基本的には何をやるのも自由?>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

新しい事、楽しい事は、何でも試して、失敗して、楽しんで。

 

私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。

  

昨日に引き続き、第5回オンライン哲学カフェ

「ルールと自由」

について書いていきたいと思います。

 

昨日の記事はこちら。 

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

昨日は、「ルールは誰のためにあるのか?」 「どうしてルールはあるのか?」について書いてきましたが、次は、「ルールは守るもの」という前提を壊してみて、「ルールは破るのも自由」というところについてから、書いていきたいと思います。

 

◆ルールを破るのも自由

「ルールは確かに存在するけれど、破ることはできる。」

そんな意見からです。

確かに、「人のものを盗んではいけない」というルールはあるものの、実際に人のものを盗むことはできます。

バレなきゃいいとかいう問題でもなく、バレて逮捕されたとしても、盗むということは可能ですよね。

 

人間には基本的に、自由に何でもやろうと思えばできます。

やった結果に対して、責任が付いてくるだけで。

 

すると必ず、「じゃあ、何をしてもいいのか」、という話になってきます。

ここでも大切なのは何をしてもいいの「いい」の部分です。

 

「いい」という日本語には、「善」の意味と「可」の意味があります。

 

「可」の意味でいうと、先述のように、何をしても「いい」ということになります。

 

では、「善」ではどうなるのでしょう。

「いい」は何にとっていいのか。

自分が「いい」のか、社会にとって「いい」のか。もしくは目の前にいる大切な人にとって「いい」のか。

でもそれもすべて、自分に返ってくるということなので、結局のところ自分に対して「いい」ということになるのかもしれません。

と、考え出すと、いくら時間があっても足りなくなるので、次の話題に移ります。

 

◆自由は幸福なのか?

人類の歴史で、人々が「自由」を勝ち取る戦いというのはいくつもありました。

「自由の女神」という象徴的な像もあるぐらい、自由というのはかくも大切なものであるように思えますが、では、「自由」があればあるほど「幸福」に生きられるのでしょうか。

 

「自由」の反対は「不自由」です。

「不自由」を考えた時、奴隷であったり、囚人であったりと、自分の好きなことができず、そうでないことを強制される状態ということになります。

 

で、そういった強制を解かれ、好きなことができるようになったら、幸福であるように思えます。

少なくとも、極端な不自由は不幸であると言えます。

 

自由とは選択肢の幅である

という意見がありましたが、あぁ、なるほどなあと感じました。

 

いっぽうで何でもできる極端な自由も、多分幸福にはならないと思います。

だからこそ、ルールがある。

自由経済の現在では、資本のある人、稼ぐ能力のある人はいくらでも富と権力を手に入れることが出来ますが、逆の立場の人のことを考えて、富の再配分というルールを設けていますよね。

 

となると、ルールというものは、最初に述べた「安心して生きる」ということにつながってきて、そこに「より多くの人が」という言葉が付いてきそうです。

 

だんだんと、ルールと自由について、見えてきたでしょうか。

もうちょっと書きたい事があるのですが、時間となりましたので、続きは日を改めさせていただきたいと思います!

 

では、また!

 

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