主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第19回「これって『芸術』?」③

<感動のやり取り>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。

 

今日も昨日の続きを書いていきたいと思います。

 

昨日までの記事はコチラ。 

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

 

◆作品を隔てた、鑑賞者と作家の関係

昨日までは、芸術というものは、

作家 ←→ 作品 ←→ 鑑賞者

という3つの相互関係によって成り立っていて、

真ん中の「作品」というものによって、作家と鑑賞者が隔てられていて、 

作家が作品に意図するものと、鑑賞者が作品から感じるものは、往々にして異なったりするものです。

 

芸術が抽象絵画などに代表されるような「難しいもの」と感じるのは、作家の意図する挑戦的な意図と、鑑賞者が作品から受け止めるものが、この構図のように分断されていしまっているからといえます。

 

◆芸術における相互交流

私達は読書会のメンバーですので、文芸を例にとってみるとどうでしょうか。

読書会で、遠藤周作の「沈黙」という江戸時代のキリシタンを題材にした小説がありました。

いちど読んだ感想としては、「幕府の役人ひどいなぁ」、とかシンプルに思うんですね。

でも読書会の中では、時代背景とかを誰かに教えてもらって、作者の問いかけたい「正義はどこにあるのか?」「宗教は何をもたらしてくれるのか?」といったことをあらためて理解したのです。

まぁ、この理解も作家が意図した問いかけを正しく理解しているかどうかはわかりません。

これは、一度作品をシンプルに楽しんでから、作家の意図との交流を試みてもう一度楽しくなるという、2度おいしい楽しみ方ではないでしょうか。

上記の構図にそっていうと、間に立っている「作品」という分断の向こう側を理解しようとすることが良い方に出ることもある、ということではないでしょうか。

 

◆結局、芸術は誰のもの?

最初の問いに戻りますが、芸術というものは必ず作品を伴います。

これがスポーツだったら、作品は自分(ないし、自分達)のパフォーマンスということになりますが、ジョギングやトレーニングのように鑑賞者がいなくても成り立つものですが。

 

だから芸術というのは、その作品というものを通して、作家や鑑賞者が感動のやり取りを行う行為であるといえます。

ただ、作品というものを伴う以上、作家ひとりでは芸術は成立せず、必ず「観る人」が必要になります。

 

よって、芸術は「観る人が決める」という表現は間違っていないと思います。

 

しかし、たとえ観る人が芸術だと思わなくても、芸術そのものを探求しそれを楽しんでいる作家の活動自体も「芸術」といえるものです。

 

問い方を「芸術は誰のためのものか?」というふうに変えたとすれば、「作家・鑑賞者みんなのものである」と言えると思いますから。

 

芸術というものは、答えを求めても捉えどころがなく、そのような捉えどころのないものを必死に追求し続けるところは、どこか哲学に通じるものがありますね。

 

◆その他出てきた話題

3回にわたって書いてきた記事に関しては、作家・作品・鑑賞者の3要素の視点から自分の感じたことを書いてきましたが、今回の哲学カフェでは、紹介できていないだけで、いつも通り実にたくさんの話題が出てきました。一部を紹介しておきます。

・「美しい景色」は芸術か?

・社会に訴える手段としての芸術

・「必要」から派生した芸術

・芸術性が高いとはどういうことか

・パクリと芸術の違い

・「芸術的」テクニック

 

今回をもちまして今年のオンライン哲学カフェは終わりです。

コロナ禍の中、このサークル活動もやり方自体を問われることになり、実験的にオンラインの形を採りましたが、いつの間にか19回もやれていました。

今年の哲学カフェについては、いずれ当ブログ内で振り返りの機会を設けるとしますので、、ひとまず、当ブログにお付き合いいただいた方、また、場を与えてくださった「彩ふ読書会」と、参加してくれたメンバーにお礼を言いたいと思います。

どうもありがとうございました。来年もよろしくお願いします!

 

では、また!

 

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