<芸術は作る人が決める?観る人が決める?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今回は第19回となります。
前回の第18回「演じる」の模様はこちら。
◆今回も「Zoom」を使いました
今回も前回同様、「Zoom」を使用。
「Zoom」とはオンライン会議アプリで、「skype」をイメージしていただくと大体そんな感じで、とても使いやすいテレビ会議アプリです。
主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。
◆この日のテーマは「芸術」
この日の参加者は9名。時間は2時間です。
オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。
しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。
(画面を見ていると誰がしゃべったか大体わかるんです)
今回の進行役は、ひじき部長に務めていただきました。
私は、ZOOMのチャット画面にメモを残していく書記係を担当しました。
この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた
「これって『芸術』?」
です。
言葉としての「芸術」とは、絵を描いたり、彫刻を作ったり、その創作「活動」自体を「芸術」と呼びますし、また、そこから出来た「作品」を指して「芸術」と呼ぶことがあります。
でも、「これが芸術だ!」と決めるのは、はたしてどういうものでしょうか?
では、哲学カフェ内での発言を振り返りつつ、感想とともに書いていきたいと思います。
◆写真は芸術なの?
「絵画や彫刻、音楽、小説は芸術だと思うが、写真は芸術なのか?」
とっかかりとして、メンバーのこんな問いがありました。
なぜ、そう思ったのか?と問えば、
「誰でも再現できて独自性が無いように思われるから。」と。
いや、でも、写真にはいろんな機材や撮影技術があって、プロの人は人が真似できない作品を作ることが出来るから、そうとは言い切れないのでは?
といった反対の意見も出てきましたが、ここで問われたのは、技術を使って、独自性のある作品を作り出すことが、「芸術」なのか、ということですね。
独自の技術を使って、時間が掛かるほど、芸術性が高まるということなのだろうか?という意見もありましたが、芸術とは「かける手間」のことでしょうか?「独自性」のことでしょうか?
◆「芸術」は観る人が決める?作る人が決める?
別の角度からの意見もありました。
「観る人が『芸術だ!』と思えば芸術なのでは?
取っ掛かりの意見は、おもに作る側の意見ですが、この意見は、「芸術」は観る側が決めるのではないか、ということですね。
であるならば、観る人が「芸術だ!」と思うのは、どんな時でしょうか?という問いになりますね。
これは、絵を見て綺麗だ、音楽を聴いて心地よい、文章を読んで感動した、、心を動かされることですね。
◆「芸術であること」を決めるのは、作る方?観る方?
ここで、このような新たな問いが生まれます。
作る人が「芸術だ」と一生懸命作品を作っても、観る人が「芸術だ」と思わなかったら、これは「芸術」なのでしょうか?
こう考えていくと、芸術というものは、
作家 ←→ 作品 ←→ 鑑賞者
という3つの相互関係によって成り立っているようなのですが、
真ん中の「作品」というものによって、作家と鑑賞者が隔てられています。
作家が作品に意図するものと、鑑賞者が作品から感じるものは、往々にして異なったりするものです。
ここまで考えたところで、改めて、芸術についての問いが次々と生まれてくるのですが、時間が来ましたので続きは日を改めたいと思います。
では、また!