<普通ってだれが決めるの?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日に引き続き、第23回「普通って何?」の振り返りを書いていきたいと思います。
昨日の記事はコチラ。
◆この日のテーマは「普通って何?」
昨日書いてきたことは、
・普通は「普通でないもの」に出会った時に感じる。
・普通はルール・マナー・習慣・文化である
・普通は国・地域・時代、個人個人によって異なる
・普通は変化する
・普通は多数派である
などです。
◆普通は誰が決めるのか?
「普通」はルールやマナーであるとすれば、「その属しているコミュニティにおける決まりごと」と言い換えることができます。
税金を払うこと。上司からの指示に従うこと。食べたら食器を流しに持っていくこと。
それは、そのコミュニティに属すること、で受けられる恩恵があって、そのために自分が払わなければならないコスト、ということです。
そのコミュニティを円滑に維持するために存在する決まりごとですね。
では誰が決めるのか、というと、法律やルールであればどこかの時点でだれかが決めることになるのですが、そうでない文化や習慣は「何となくそうなっている」ということも多いのではないかと思います。
明文化されていないルールではありますが、しかしそれは個々人の気持ちの中に確かに存在し、それを破ることで他人に不快感を与えたり、自分にとって不利益になることがあります。
それが「習慣」や「文化」だから仕方がないと言ってしまえば、それまでなんですが。
◆「普通」じゃないと感じるものの正体とは?
ここまで考えてきて、「普通じゃない」と感じるものの正体がおぼろげに見えてきました。
「普通」がコミュニティの全体最適を図るためのルールやマナー、文化や習慣であるならば、それと異なる文化に属する人にとっては「普通」ではありません。
また、時代が変わればそのコミュニティ持つ意味や属する人々の価値観も変わってきます。(文化や世代のギャップ)。
また、全体最適という観点から見ると、多数派の論理になってしまうので、どうしても少数派の人は「普通でない」と感じてしまうのです。
◆少数派の居心地の悪さ
「あるコミュニティで周りが若者ばかり(自分だけ歳を食っている)だと居心地が悪い」
という意見がありました。
少数派に居心地の悪さというのは、良く感じるものです。
人というものは社会生活が基本になっているので、孤立感が不安につながってしまうのはどうしようもないものかもしれません。
もし、そのコミュニティから排斥されることで、生きる糧を失うこともありますから。
「普通である」=「安心感」、「普通でない」=「緊張感」という図式は本能的なものかもしれません。
しかし、いっぽうで
「普通であると逆に不安になる」という意見もありました。
「普通」と言われるものに従ってにしていることを「それでいいのか?」と疑問に思う気持ち、「みんなと同じが嫌」だとか、「価値観を他人に委ねているようだ」とか「個性、他人との差別化が自分の価値」とか、いろんな理由があるかもしれませんが、こちらも誰しも持っている考えだと思います。
「普通でありたい」、「普通でありたくない」、この2つの気持ちは自分にとっては共存しているものである気がしています。
もう少しだけ書いて終わりにしようと思いましたが、時間となりましたので、日を改めてもう少しだけ書きます。(多分書きます)
では、また!