<じゃあ、「ノンフィクション」ってなんなんだろう?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「フィクション」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては
・楽しめるフィクションと楽しめないフィクションの違い
・イメージしにくいフィクションは楽しめない
・フィクションは、わからないものを説明し理解するために用いられる
・人々が助け合うために作られるもの
ということについて話が出てきました。
◆フィクションでないものは?
フィクションはなんだ?の考えを深めるにあたり、「ではフィクションでないものはなんだ?」と考えてみます。
「ノンフィクション」という言葉が当然浮かんできます。
ノンフィクションは「実話」です。
「実話」とは、自分が実際見聞きしたことを文章や映像で表現していくものです。
では、その人が語る「実話」とは、ほんとうに唯一の真実なんだろうか?
という意見がありました。
例えば戦場のレポートであれば、「ここは戦場である」「これは戦争である」というのは唯一の真実なのでしょうか?
登山の記録であれば、「これは山である」「この山は険しい」「命を懸けた闘い」というのは唯一の真実なのでしょうか?
そこにはその人なりの解釈があり、表現するときの手法があります。
しかも、たとえそれが「たった一つの真実」だとしても、それはあくまで「その人にとっての真実」であって、それを読んでいる・見ている「わたし」にとっては、唯一の真実かどうかを知りえることはできません。
それは、「世界は神々が創った」という神話とはっきりと異なると言い切れるでしょうか?
ノンフィクションなんてものは存在しないのでは?
とまぁ、ここまでくるともはや屁理屈のように聞こえてきて、考え出すときりがないのですが、フィクションとは・ノンフィクションとはをつきつめて考え出すとこんな面白いことになってしまったのでした。
これも哲学カフェです。
◆宗教という壮大なフィクション
宗教の力が弱まってきた今、それにとって代わるものは何か?
という問いがありました。
その問いに対しては、「宗教はどういう役割を果たしていて、それがなぜ弱まっているのか、弱まるとどうなるのか?」という問いに言い換えればよいかもしれません。
人々は長らく「宗教」というフィクションによって、国家の統治や人々の道徳規範の形成に役立ててきました。
しかし、それが弱まっているということは、「人々がまとまる」重要性が薄れているからでしょうか?
はたまた、まとまっていないように見えるだけで、「テクノロジー」という新しい宗教のもとに、知らず知らずのうちにまとまっているだけなのでしょうか?
◆フィクションと「空想」
哲学カフェも終わりに近づき、壮大なところからいったん離れて、もう一度文学や映画に戻ってみると、フィクションはどう見えるようになったでしょうか?
最後に「空想」という言葉が浮かんできて、その空想という言葉を使うともう少し話は広がるかもしれない、と考えましたが、そこで時間となりました。
続きが書けるなら、また別の機会に書くとして、今回の哲学カフェのレポートはひとまず終わりにしたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!