<勝ち負けは誰が決める?>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「競争」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・どうして競争したいの?
・競争は不可欠なの?
・競争に終わりはないの?
◆競争は批判される?
どうも、競争は不可避なもの(不可欠なもの)のような気がしてきました。
しかし、「行き過ぎた競争」についてはメンバーよりいろんな意見がありました。
富の独占は格差社会、戦争の行きつく先はアルマゲドンになります。
だから行き過ぎた競争に批判的なのはよくわかります。
しかしながら、競争を好む人に対しての批判は、どうもそこだけじゃないんじゃないかっていう気がします。
たとえば商売で儲かっている人に対し、「あの人はがめつい人だ」とかいう批判があるとすると、どこか嫉妬を含んでいないでしょうか。
競争社会でうまくやって(これ自体どこか含みのある表現ですが)稼げる人は、妬みの対象になりやすいですから。
「格差は自己責任なのか?」
という話題にもなりました。
貧困になってしまった人、立場の弱い人、は負け続けたからなの?
それとも、生まれた国、家庭による?
◆勝ち負けは誰が決める?
そもそも競争の原理である「優劣を競う」の「優劣」ってどういうことでしょうか。
例えばスポーツとか、テストとか、一定のルールの中で点数を競い合うのであればその点数が優劣であることはわかります。
でも、普段の生活での競争はそうでないことのほうがはるかに多くないでしょうか。
仕事上のコンペ、オーディションで選ばれたらそれは勝ちですが、たとえ負けたとしてもその後どこかで思い出されて別の仕事をもらえることもありますし、短期的に負けても長期的には勝っていたなんてこともよくあります。
哲学カフェ「ゲーム」の回でも出てきましたが、勝ち負けを決めるには一定のルールが必要で、他人と競い合うにはそれを共通認識として持っていないといけないですね。
逆に考えると、それがないと自分の解釈次第で勝ち負けはいかようにもなるということ。
そう考えていくと、いまの自分が、「過去の自分」と競争という考え方も、できますよね。
他の人には負けたけれど、昨日の自分には勝った、成長したからそれでよいではないか、とか。
今日は嫌なことがあったけど、元気で一日を過ごせたからよかった、とか。
◆終わりです。
2時間経ったところで哲学カフェは終了です。
今回は人数が少なめでどうなるかと思いましたが、その分じっくり考えることができたかな、と思います。
途中、戦争や貧困など、政治や歴史の話なんかも出てきてそれはそれで楽しかったです!
では、また!