<ただ「役に立たない」人なんて存在しない>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加している「彩ふ読書会」において、参加メンバーで作るグループ活動として開催しています、「オンライン哲学カフェ」。
今日は昨日の続きで
「役に立つ」
について書いていきたいと思います。
昨日の内容はこちら。
昨日書いた内容としては、以下のようなものです。
・役に立つの「役」は「役割」
・役に立つとは、性能が優れているというわけではなく、役に立たれる側が望むことに適っているかどうか
・役に立っているのは、その人やモノではなくて、その人や物が持っている「機能」である
◆あなたは、役に立ちたいと思っているか?
休憩をはさんで、哲学カフェは話題を当初の問いである「役に立つという言葉がなんとなく自分を縛っているような気がする」、ということに戻っていくのでした。
その前に、メンバーからこのような問いかけがありました。
「あなたは、役に立ちたいと思っていますか?」
そんな即席アンケートは、6人のうち4人が「そう思う」、2人が「別に思わない」という結果でした。
「そう思う」の理由として、「評価を得られるのが嬉しい」「自分の存在価値」という意見がありました。
逆の意見としては、評価を求めているわけではない、というもの。
色んな意見が出てきたのでずが、「役に立つ」というのは、自分にとって、評価や承認による満足感や、所属による安心感を満たすものとして重要なものであるようだ、ということが、そこでは導き出されました。
◆「役に立たなければならない」という鎖
そうれを踏まえて、どうして、「役に立つ」ことの価値がこんなに強いのか、「役に立たない人」は生きる資格がない、ような世の中になったのでしょうか?という問いが起こってきます。
しかしながら、私達はまだこの問いについて、引っ掛かりを取り切れずにいました。
その引っ掛かりが何なのか、もう少し対話を続けていった中で、出てきたケースが、
「植物状態で動けなくなった人は、役に立たないから、生きる資格がないのか?」
という問いでした。
確かにその人はもう仕事ができないので、社会の役に立つことは難しいようです。
でも、家族にとってはただ生きていることそれだけで価値を生み出しているし、ひょっとしたら生きていることで医学の進歩に貢献しているかもしれません。
そう考えると、どんなものでも、ある意味では役に立っていないけれど、別の意味では役に立っているといえるのではないでしょうか。
結局のところ、「役に立つ」というのは、「『何の』役に立っているか」の対象を考えないと成立しないということです。
だから、その人自体が「ただ、役に立たない」ということは、ありえないということになりそうです。
そして再び、ようやく長い道でしたが、最初の、
どうして、「役に立つ」ことの価値がこんなに強いのか、という問いに戻ることができました。
価値が強くなったと感じるところの「役に立つ」、の対象を考えなくてはいけない、ということになります。
そうするとやはり「仕事をしてお金を稼ぐ」ということに代表される経済的価値を生み出しているか、社会を動かすことに対して役に立っているかどうか、ということになりそうです。
ではどうして、最近、特にそう感じるのか、といえば、あるメンバーから、
「私たちの社会が、余裕がない状態になってしまったからではないのか」
という意見が出てきました。
みんなが経済効率を追求するあまり、生産性の低い人・モノを軽視する傾向にあるのではないか、ということです。
確かに、そうかもしれません。
でも、その傾向が最近本当に強まっているのか、それは過去からもなかったのか、もう少し検討の余地があるように思いますが、また別の機会に考えるとして。
◆役に立つ人を称賛することと、役に立たない人を侮蔑することは同じではない
こんな意見がありました。
この意見が引き金となって、新たな展開となったのですが、
これは日を改めて書きたいと思います。
すみません、3日目になってしまいますが、もう少し、お付き合いください。
では、また!