ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

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「同志少女よ、敵を撃て」 逢坂冬馬(ネタバレ:中)①

<戦争は人間の顔をしていない>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本。

 

内容<amazonより>

【2022年本屋大賞受賞! 】
キノベス! 2022 第1位、2022年本屋大賞ノミネート、第166回直木賞候補作、第9回高校生直木賞候補作
テレビ、ラジオ、新聞、雑誌で続々紹介!
史上初、選考委員全員が5点満点をつけた、第11回アガサ・クリスティー賞大賞受賞作

独ソ戦が激化する1942年、モスクワ近郊の農村に暮らす少女セラフィマの日常は、突如として奪われた。急襲したドイツ軍によって、母親のエカチェリーナほか村人たちが惨殺されたのだ。自らも射殺される寸前、セラフィマは赤軍の女性兵士イリーナに救われる。「戦いたいか、死にたいか」――そう問われた彼女は、イリーナが教官を務める訓練学校で一流の狙撃兵になることを決意する。母を撃ったドイツ人狙撃手と、母の遺体を焼き払ったイリーナに復讐するために。同じ境遇で家族を喪い、戦うことを選んだ女性狙撃兵たちとともに訓練を重ねたセラフィマは、やがて独ソ戦の決定的な転換点となるスターリングラードの前線へと向かう。おびただしい死の果てに、彼女が目にした“真の敵"とは?

◆この本は

ボリューム:★★★★☆(そこそこあります)

読みやすさ:★★★★☆(辛いシーンも多いですが)

アクション:★★★★★(描写力が凄いです)

感動   :★★★★☆(あまりにも残酷な、強いメッセージ)

 

今だからこそ、読むべき傑作だと思います。

とにかく戦場では人はあっけなく死んでいくということ、戦争によって変化してしまった人格の部分はもう戻らないということ、そしてこの戦争は未来である今に続いているということです。

 

◆内容紹介・感想

時は1942年。人類史上最悪の戦争とよばれた独ソ戦の真っ只中。

ナチスドイツがソ連国内最大版図に達しようとしていた時、モスクワ近郊の小さな村がドイツ軍により壊滅させられます。

ここで唯一生き残った少女が、この物語の主人公、セラフィマ。孤児になってしまった彼女は、たまたま救援に駆け付けたソ連軍の女性兵士、イリーナに連れて行かれ、狙撃兵の養成学校に入学することになります。

すべてを失ったセラフィマはただ生きることと、村を壊滅させたナチスドイツと母親を殺したドイツ軍狙撃兵への復讐心を支えに狙撃兵としての腕をあげていきます。

 

そして、いよいよ戦場へ。イリーナ率いる5人の女性狙撃兵の遊撃部隊として参加したデビュー戦は、スターリングラード郊外でルーマニア軍と対峙することになります。

突然始まる戦闘。向かってくる戦車。砲撃で飛び散る兵士たち。セラフィマ自身も爆風に吹き飛ばされ、絶体絶命に陥りますが何とか立て直し戦闘に参加していきます。

結果的にはソ連軍の勝利となりますが、自らも死線をさまよい、さらに大切な仲間を失った衝撃はあまりにも大きいものでした。

 

次章がこの小説最大の見せ場、スターリングラードの戦いになります。

ソ連軍が最終的に勝利し独ソ戦のターニングポイントとなったこの戦いですが、当会戦はドイツ軍に包囲された都市を救うため、ソ連軍が外側から逆包囲しドイツ軍を孤立させるという特殊な作戦。

補給の乏しい前線で一都市に兵力を集中しすぎ、また守勢有利の市街戦になってしまったドイツ軍の失敗と言われている戦いです。

イリーナ・セラフィマ達が派遣されたのは、最前線のたった4人しか生き残っていない隊、指揮官の自宅に10名足らずで立てこもり抗戦するという孤立無援の状況でした。

ここでもセラフィマは奮闘しますが大切な仲間を何人も失うことになるのです。

そしてここで、故郷を襲って母親を殺害したドイツ狙撃兵と思われる男の噂を聞きつけるのです。

 

以後の戦闘は退却するドイツ軍をソ連軍(連合軍)が追い詰めていくことになりますが、最後にその狙撃兵を見つけて対決することができるのか、そして終結間近の大戦が終わった後は、、。

 

とまぁ、ざっと冒頭からのあらすじはこんな感じになりますが、ここからは感想です。

 

まず、最初にも書きましたが、この小説を通じての一番大きな印象は、この本の帯で三浦しおんさんが書かれていた言葉「戦争は人間の顔をしていない」という印象と同じものでした。

セラフィマのような前線の兵士一人一人に焦点をあてることで、戦略を立てて戦争を動かしていく指揮官とは全く世界が違うということを伝えたいのだと感じました。

言い換えると後者は政治の世界になるのですが、この小説の舞台は単なる殺し合いと市民の虐殺の連続です。

 

以前読んだ

でも感じたことですが、戦争というものは人が殺し合うことを前提に作戦が立てられ、極論すると兵士の損耗が大きいほうが負けるというゲームです。

しかし勝つほうも負けるほうも人が死にます、その死んだ人ひとりひとりに人生があり家族があり将来の夢があり、ということを感じてやまないのです。

 

作中にも、斃れた同志に「彼女には子を産み育てることもなければ孫が生まれることもない」と感想を漏らすシーンがありましたが、これが筆者が読者に伝えたいことの大きなひとつであろうことが分かります。

 

戦争というのはとかくナチスドイツVS共産主義というように、また現在のウクライナ侵攻をとっても、侵略者VS世界の正義というような政治的構図がクローズアップされてしまいますが、実際の戦場ではそれとは全く関係なく、単なる前線の兵士同士の殺し合いと市民の虐殺である、ということを読者たちが想起してほしいという筆者の願いを感じました。

実際に本屋大賞受賞のスピーチでもそのようなことを述べていたと覚えています。

 

そして、狙撃兵という立場を主人公に設定した筆者は「人を殺す」意味をも考えさせようとしています。集団で戦闘しない狙撃兵はチームで動く他の兵科と違い、明確に人を殺す意思を持っていないと務まりません。

戦闘で生き延びることと、戦場で人を殺すことはまた意味が違ってきます。

ここでも、自分が相手を殺す意味を個々がどう持つか(持ち続けられるか)というのは、イデオロギーという言葉ではとても片付けられないと感じました。

本来人間も動物であり縄張り争いの本能はあるにせよ、人を殺す意思というものをここまで持ち続けることなどできないと思いますし、ましてや現代社会で「人を殺す意味」などというものを考えなければならないということ自体とても悲しいことです。それを可能にさせている戦争というものはやはり「人間の顔をしていない」ということです。

そしてそれを文学という形式を持って表現しきろうとしている、この小説の凄みを感じるのです。自分には伝わっていますよ、逢坂さん。

 

もうちょっと書きたいと思いますが長くなってきたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また!