ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

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「ブルシット・ジョブ クソどうでもいい仕事の理論」デヴィッド・グレーバー④

<労働の社会的価値が経済的価値と反比例する現象>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。

 

◆感想つづき

「ブルシット・ジョブ」について、筆者は具体的な3つの問いに挑んでいきます。

・個人的問い:なぜ人々はブルシット・ジョブに同意し、耐えているのか?
・社会的問い:ブルシット・ジョブを増殖させている大きな力とはどのようなものか?
・文化的問い:なぜ経済のブルシット化が社会問題とみなされないのか?

 

最後に、なぜ私たちは無意味な仕事の増大に反対しないのか?という問いについて考えたいと思います。

この問いは、「労働の社会的価値がその経済的価値に対して反比例する現象」というふうに筆者は言い換えていますが、これはなかなか興味深い問題です。

何の意味も無いよう(と、感じる)ブルシット・ジョブが、社会的意義の高い(と、感じる)仕事より待遇が良いという現象です。

 

社会的意義が高い仕事とは、ケア労働と呼ばれる保育や介護の現場で働くことを想像するとわかりやすいですね。この業界の賃金アップの必要性が常に言われていることからも、ケア労働の給料の相対的低さがわかります。

 

ではどうして逆に社会的意義が低い(と、感じる)ブルシット・ジョブの給料は高いことが多いのでしょうか。

文中に、「仕事が高貴なものならば、報酬を与えるべきでないという価値観」という表現がありました。

言い換えれば、「社会的意義の高い仕事(=やりがいのある仕事)は、やりがい自体が報酬の一部である」という考え方になるでしょうか。

 

身も蓋もない言い方をすると、これも「需要と供給の関係」と言えなくもなさそうです。やりがいのある仕事は多くの人がやりたがる⇒給料が下がり、やりがいのないブルシット・ジョブは多くの人がやりたがらない⇒給料が上がる、という構図です。

※だからといって、ケア労働の待遇改善が不要という話ではありません

 

経済の原理と社会的価値はそれぞれ別の論理で動いていて、また、それがむしろ筆者の言う「倒錯した関係」になっているというのは、とても興味深い指摘です。

 

「たとえ待遇が良くても、『自分を高められない』と仕事を辞めていく若者」という記事を読んだことを思い出しました。

また、仕事の勤続年数が長くなってくると、つまらない仕事が増えていくというようなことの説明にもなるかもしれません。

 

「所詮仕事だと割り切って仕事していないと、やってられない」という言葉をよく聞きます。(私も良く言います)。

ますます、仕事が社会貢献というより、「社会貢献とかけ離れたゲーム」のような違和感が増しているように感じているのは、たぶん私だけではないように思います。

 

著者はこの問題について、結論としての解決策を示しているというわけではなく、問題提起をしてみんなで一緒に考えていくという本になっていますが、最後に「ベーシックインカム」の可能性についても触れています。

こちらもある程度ブルシット・ジョブの課題を解決する可能性を持っていて、ベーシックインカムを考察することでブルシット・ジョブの課題を改めて発見できるというような考察になっていてこちらも興味深かったです。

 

というわけで、長々と「ブルシット・ジョブ」についての感想を書いてきましたが、私のまとめとしては、「ブルシット・ジョブというのは、資本主義経済を維持していくうえで、ある程度仕方がなくて、それを理解したうえで、自分がブルシット・ジョブとどう向き合うかの問題として捉える」しかないのかな、という感想になりました。

そして、現在の資本主義の論理が、社会の課題と乖離していっているなぁ、というふうに思った、というのも付け足しておきます。

 

以上で、この本についての感想を終えたいと思います。

ありがとうございました。

 

では、また!