<「キャラ付け」と親密性の関係>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「キャラ」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
前回書いた内容としては、以下のようなものです。
・どんな「キャラ」がある?
・「キャラ」と「性格」は、どう違う?
・なぜ「キャラ付け」するのか?
◆自分から「○○キャラ」
「私は陰キャだから」「非リアだから」という、自分からの「○○キャラだから」宣言はどういう意味があるんだろう?
という意見がありました。
「役割」ニュアンスで使われることもあるかもしれないですが、また別の意味も持っていそうです。
「『私、陰キャだから』と宣言することにより、自分のハードルを下げている」という意見がありました。
「決めつけを防止する」「『打たれる杭』になるのを防止する」というのもありました。
勝手に期待されて、裏切られることへの保険、また余計な摩擦を生まないための自己防衛という感じですかね。
◆キャラ変、キャラかぶり
「キャラ変」「キャラかぶり」という言葉もあります。
「キャラ変」は、芸能界で言うとおバカキャラからママタレに、芸能界の中での立ち位置(役割り)を変化させています。
一般人においては、「夏休み明けデビュー」というのがありましたが、逆に、「ずっと一緒にいながら、キャラ変するのは難しい」という意見もありました。
いっぽう「キャラかぶり」。同じような性格、役割である「キャラかぶり」がいることは、どうして具合が悪いのでしょうか?その辺も興味深いですね。
◆「キャラ付け」と親密性
「『キャラ付け』するのは、親密度が低い場合」という意見がありました。
これも面白い指摘です。
親しいから、キャラ付けするというのとは逆ということになります。
「人間は一つのキャラに決められるわけではない」、というのは親密度が高いほどよくわかるはずで、例えば家族兄弟に対しては、その人まるごとキャラ付けするということはあまりしない。
いっぽうで、そこまで親密でないクラスメイトや仕事の同僚など、キャラと結び付けて覚えると、コミュニケーション上、都合が良いというのがあります。
そんな中で、「キャラ変」や「キャラかぶり」が起こってきます。
◆「キャラ」と居場所
「『キャラ』はその人に『居場所』を与えている」という意見がりました。
「あいつはバカだ」と「あいつはおバカキャラだから」というニュアンスの違いは、このグループから排除するか、とどめておけるかの違いということのようです。
これは、最初の「ネガティブ表現をマイルドにしている」効果と関係がありそうです。
しかし逆に、「キャラ」がなければ、その集団にいてはいけないのか、という印象も持ちました。
「何者かでないといけない」という言葉を思い出します。
野球選手に例えてくれた意見もありましたが、「キャラ」を「ポジション」と置き換えて考えると理解しやすいですね。走塁や守備とか一芸に秀でている人の方が生き残りやすい、というやつです。
◆終わりです。
今回は、「キャラ」という存在について、いつもよりいろんな角度から意見が出てきたように思います。
そのぶん、もっと深く掘り下げるところまでいかなかったかなぁとも思いますが、これも哲学カフェ、楽しかったです。
以上で、オンライン哲学カフェ「キャラ」のレポートを終わりたいと思います。
では、また!