<わかりにくさを大切にしたいが、できない日常>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の続きを書いていきたいと思います。
◆感想つづき
「何かを言うことは、終わりではなく、それが話の始まりである。話を終わらせる言葉が優秀なのではなく、もっともっとかく乱のために存在するべきなのだ。」
自分が、月2回ペースで実践している「哲学カフェ」では、
「思いついたことがことがあれば、まとまっていなくても、とりあえず話してみる」
という方針があります。
また、「誰かが話し始めると、その他の人は、話が終わるまでただ聞くこと」というルールがあります。
それらのルールは、まさに、日常生活で忘れがちなことだと思っています。
日常会話、特に仕事の場では、とにかく、相手の言葉を話し途中で理解していき、話を聞きながら次の返しを考え、テンポよくキャッチボールをしていく。
簡潔にまとめて話すのが基本で、まとまっていない質問、しつこい質問は、コミュニケーションの妨げであり害悪であるとみなされます。
そんな中で、「ごめんなさい、もう一度説明してください。」とか、「すみません、よくわかりませんでした。」と言うのは、恥ずかしいことではなく、対話を続けていくために必要なことだと、哲学カフェをやるようになってから気付き、日常の場面でも恥ずかしげもなく使えるようになりました。
人は、多くは言葉によってコミュニケーションしていくしかないので、わからない部分は言葉によって確認していくしかありません。
「わからないこと」を大切にし、それを楽しむことのできる人たちと出会えたことは幸運でした。
でも、「それって、本当にそうなのか?」だとか、「そう、言い切っていいの?」、だとか、その「わからないことを見つける」や、「わかりにくさを楽しむ」は、やはり日常生活では妨げになることもあります。
だから、「文句言うんだったら見なけりゃいい」と言われるわけですが、、。
この辺がジレンマですねぇ。
「忙しい」日常での振る舞い方と、「わからないことが増えていく」哲学の世界。
最近の自分は、ダブルスタンダードになりつつあるというのが正直なところではないでしょうか。
今日は短いですが、時間なのでこれで終わりにします。
まだ続きあります!
では、また!