<失敗も、結局「何に対して」かということ>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「失敗」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆すぐにわかる失敗とだいぶ経ってからわかる失敗
どうして「失敗」だと思うのか?についての続きです。
失敗を「こんなはずじゃなかったと思うこと」という言い換えがありましたが、
ある出来事に対して、「こんなはず」がいつもあるのでしょうか。
それを「目的」として考えてきましたが、過去のことについて、果たして目的があったのかどうか、あいまいな場合があります。
例えば、PKを外すということについては、PKを決めるという誰の目にも明らかな「こんなはず」が存在し、それを外すことが失敗となります。さらに、失敗か成功かは蹴り終えてすぐわかります。
対して、「会社選びの失敗」はどうでしょう。例えばやりたかった接客業の仕事について一生懸命働いてきたが、勤務内容がブラックで何度か体を壊してしまったとすると、会社選びに失敗したとなります。
しかし、そうだとしても、対価としてのお金もしっかりもらっていて、スキルも身に付いたとすると、全面的に失敗だっとは言い切れないところはあります。
また、人生の終盤になって、あのころを振り返って、「あのハードワークがあったからこそ今がある」なんて思ったとしたら、それは失敗ではなかったのかもしれません。
となると、失敗が成功に変化したことになります。
これは、どういうことでしょうか。
結局のところ失敗は、「過去の出来事に対する判断」でありますが、「『何に対しての』失敗であるのかの判断」によって、同じ出来事であっても、失敗になったりそうでなくなったりするということでしょう。
上記会社選びの例で言うと、「健康に働き続ける」という面では「失敗」になりますが、「一生を通して糧を得る仕事ができた」という面では「成功」となりました。
◆ミクロでの失敗とマクロでの成功
・仕事における「失敗の推奨」はどういうことか?
という問いがありました。
これは、「守りに入って新しいチャレンジを続けない会社は衰退する」、「チャレンジからしか新しいビジネスが生まれない」という意味で正しい経営理論となっています。
「しかし、失敗というのは、そこに痛みを伴うもので、良い面ばかりを持ち上げるはどうかと思う」という意見もありました。
「ミクロの視点では失敗だが、マクロの視点では失敗が成功に変化する例」
という、先ほどの会社選びと同じような意見が出てきました。
つまり、「何に対して」を考えてみると、戦術単位・現場単位ではそれは失敗であり痛手ではありますが、企業風土・経営戦略などの長い目で見れば、必要経費として全然失敗とはいえないということになります。
現場にとっての痛みは、上層部にとっては痛みではない、と言い換えることもできますよね。
◆終わりです。
「失敗」に関しては、やはり身近な出来事であり、また関心の高いものであるがゆえに、書いてきたこと以外にも様々な問いや意見がありました。
・「妥協」や「諦め」と失敗の違い
・「間違い」や「ミス」と失敗の違い
・「失敗」とは取り返せることなのか?
・普遍的基準に対する「失敗」と、人それぞれな「失敗」
というような、多くの問いがあって、今回は時間が経つのがいつもより早かった印象でしたし、まだまだ時間が足りないなぁとも思えるテーマでした!
というところで、今回の哲学カフェ「失敗」の振り返りを終わりたいと思います。
では、また!