<私たちは力を合わせて「資本主義の神」のスピードを緩めることができるのか、それともさらに分断が進んでいくのか。>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日も、この本の続きを書いていきたいと思います。
前回の記事はこちら。
◆感想続き
③<心の探求>
第3部の「心の探求」では、宗教や経済、社会とエネルギーの関わり方についての旅となっています。
なかでもやはり、昨日述べたように社会とエネルギーの関係性についての記述が印象深いです。
現在の人類は、
「『資本の神』に支配されていて」、
「資本の神はエネルギーを貪欲に吸収することで成長していくエネルギーの化身、一種のモンスターのようなものだ」
だと筆者は看破しました。
知の追求によって、地球上全てのものがエネルギーで説明できるということがわかりましたが、ここでは、目に見えるモノだけでなく、抽象概念である社会や経済といったものまでも、エネルギーで説明しているということになります。
しかしながら資本主義経済は「巨大な散逸構造」であると考えると、やはりうまく説明できるところが多くあるように気付きます。
人類が繁栄するために作り出した「秩序」であるということ、それはエネルギーを消費しながら維持されており、大きくなればなるほどより多くのエネルギーを要するようになるということ、は、まさに散逸構造そのものであると思いました。
そして現代社会です。巨大な散逸構造である資本の神がますます強大な力を持つにつれて、規模とともに目を付けたのは「時間」です。
時間を管理することで、より散逸構造の「密度」を高めるという成長戦略を、資本の神は同時並行でとっていきます。
そうすることで、世の中の競争は激しくなる一方。コストを切り詰め、寸暇を惜しんで他人より勤勉に働かないと、簡単に落伍してしまう。
そうして現在の人間は、好むと好まざるに関わらず、エネルギーを大量消費し、猛スピードで駆け抜けていくことになる。
資本主義の正体を、エネルギー視点に立ってこういう形で説明されると、なるほど腑に落ちることばかりです。
「いやおうなく」という部分がすごくよくわかります。自分はこの状況をけっして「応」だとは思っていなくて、やっぱり「嫌」なんですね。
何万年も狩猟採集生活をしながら進化してきた私たちの身体が、急激な変化に追いついていない。
でも社会がそうなっているから仕方ない。そして、その「嫌」さというか、自分が快適だと思う社会と、現実の社会との乖離がますます進んでいっているような気がします。
自分たちが望んで作り上げた資本主義に、自分たちで巻き込まれていっている、そんな印象なのですが、どうしてこうなってしまったのでしょうか?
そこを筆者は「わたしたちの『脳』」がそうだから、と表現しています。
ここのところはうまく理解・説明できるわけではないですが、脳がそもそも「エネルギーを大量消費し維持されていく散逸構造」であり、他の動物にはなしえない「物理的な制約を想像力で超えていく」ことを繰り返していった結果の現在ではないか、ということです。
というふうに理解したところで、「どうしようもない」という絶望感にしかならないのではないか、と思いますが、筆者は最後に、
④<旅の目的地>
を用意してくれていました。
人類は、想像力で今まで物理的な制約を乗り越えていったから、きっとこの先も想像力で乗り越えていこうとするだろう、という希望です。
しかし筆者はしっかり「科学の進歩を過信してはいけない」と警告しています。
科学には「熱力学の法則」に支配されていてかならず限界があるということを意識して、未来に過信せず今自分たちができることをやっていこう、というスタンスで最後の旅は締めくくられています。
2100年ごろには世界人口はピークを迎えると言われています。その頃を見据えて、今、私たちは「資本主義の神」のスピードを緩めていくことができるでしょうか。
それとも、もっと「乗り続ける人」と「降りる人」の分断が進んでいくのでしょうか。
巨大な散逸構造の中の、小さな散逸構造である私たちのかくも壮大な旅は、まだまだ途中ですね。
長々と書いてきましたが、これにて感想を終えたいと思います。ありがとうございました。
では、また!