<「えいや!」と「でも、だって」のせめぎ合い>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「精神論」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆自分にかける「精神論」と精神論の効用
「もっとできるはず」「あきらめない」という言葉は、他人より自分にかけてしまう。その結果、自分を追い込んでしんどくなってしまうことがある。
という意見がありました。
「キャパを超える、プラスアルファの作用がある」という意見がありましたが、この「キャパ」と「プラスアルファ」の部分について、検討があったと思います。
ここまで、精神論とは、「行動を促すものの中で、方法論を欠いているもの」という言い換えを行ってきましたが、方法論を欠いているにもかかわらず、効用があるというのはどうしてでしょうか。
ロジックを欠いている中で、とりあえず行動してみて、良い結果につながったという例です。
この場合、あてにできる成功体験がないことで、これから起こす行動に不安になり一歩踏み出せない、そんな事態を精神論で不安を取り除くという構図になります。
「根拠が無くて不安」を取り払うためには、逆の「根拠のない暗示」が必要となります。むしろ根拠がないことが必要になるということです。
◆不安を持つことを批判する「精神論」
「行動を促すにあたって、不安を取り除いて安心させるよりは、不安を持つことそのものを批判するような響きがある」
という意見がありました。
精神論の多くは「行動を起こす」方向に働くのであって、行動を止める方向には働きません。
いっぽう、精神論の反対にあるロジックは行動を起こす側にも止める方向にも作用します。
ここまでの話で、精神論が嫌われるのは、行動を止めようとするロジックと、行動を促そうとする精神論が摩擦を起こした場合というふうに考えられます。
「えいや」を促す精神論と、「でも、だって」のせめぎ合いとでも言いましょうか。
そしてその「止めようとするロジック」が独りよがりなものであったりしたとき、実際やってみるとうまくいった、というふうになる場合もある、ということでしょうか。
◆終わりです。
哲学カフェは時間が来たら、話がまとまっていなくても終わりです。
精神論に関しては、ある程度早い段階で、意味の検討が狭い範囲に収まったという印象があり、話が落ち着いて進んでいったなぁという感じでした。
以上で、今回の哲学カフェ「精神論」の振り返りを終えたいと思います。
ありがとうございました。
では、また!