<「悪口ノート」を思い出した>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
今日は、この本の感想続きを書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆ネタバレ含む感想
※引き続きこれより先は、ネタバレを含みますのでご注意ください。
<ツィッターと裏アカウント>
この物語の中には、ツィッターの書き込みが多分に使用されています。
その使い方によって、それぞれのキャラクターをよく表し、この物語の根幹となるものを演出しています。
理香さんと隆良は、できない自分と対比するように「できている自分、努力している自分」をツィッターで実況中継し、それを、生きるための寄る辺としているようです。
光太郎と瑞月さんは、現実の言動と同じような言葉をつぶやき、
サワ先輩は、ツィッターをしません。
そして、拓人は、裏アカウントで毒を吐いていました。
普通の感想かもしれないですが、思ったのは、なんで他人に見られるような状態で他人の悪口を書き込むのだろうということです。
思い出したのは、「天才はあきらめた」
での山里亮太さんの「悪口を描きまくったノート」。
売れていく同期と比較して、できない自分、ズタズタにされたプライドをなんとか保つため、彼はノートに悪口を書きまくりました。
これを「性格が悪い」というのは簡単ですが、同時に彼の圧倒的な努力と併せて読むことで、これはこれでアリなんじゃないかと思いましたよ。
翻って、拓人は、やっぱり「冷静分析系男子」という「何者か」でありたいがために、敢えて誰かが見られる状態にしておきたかったんでしょうね。
<テーマの「何者」>
最後に、テーマの「何者」について。
「何者かにならなければいけない」という思いは、近年の若者に特有なものだと言われます。
それはどうしてかと考えると、やっぱり、「何物にもなれる」自由が広がったからのように思います。
ひと世代前は、新卒で就職活動して、年功序列があって、定年まで勤めて、という一定の「型」がありました。
だから、ほとんどの人が深く考えずともそれなりに就職できましたが、自由が広がった現代においては常に「自分とは何者か」を考え続け、「自分に合ったこと」を意識し続けなくてはいけなくなっている気がします。
そして、SNSには意味があろうとなかろうと「何者か」の肩書を持った一般人だらけで、自分も「何者か」にならなければいけない脅迫を感じてしまう。
こうしている自分も、「読書と哲学カフェが好きです」という「何者」を意識して生きようとしていて、あわよくばもうひとつの「何者」を付けられないかと欲ばっている日々にいます。
そして「何者」にもなり切れていない自分と、周囲の「何者」とを比較して嫉妬し続ける日々を否定することはできません。
自分の中にある、強くて弱い姿。出てくるものはきたないものでも、吐き出すと傷つくことも知っていても、それを出さずにいられない。
そうやって考えていくと、拓人的なもの、理香さんや隆良的なものは、やっぱり人間としてすごく「ふつうのこと」なんじゃないか、って思いました。
それを言っちゃおしまいかもしれませんが、どうせ、息をしてご飯を食べて排泄して、寿命が来たら消えてなくなるだけの生き物ですから。
ということで、長々と書いてきましたが、そろそろ終わりたいと思います!
ありがとうございました。
では、また!