みんなの日常哲学カフェ ~哲学カフェとか読書とか

哲学カフェの記録を中心に、読書記事も書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

オンライン哲学カフェ第80回「優しさ」②

<優しさと支払われるコストの関係>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

今日は前回の続きで

「優しさ」

について書いていきたいと思います。

 

前回の内容はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆自己評価による優しさ

「釣った魚をリリースする」「釣った魚を猫にあげる」という例が出てきました。

これは魚や猫が「優しい」と思っているわけではなく、あくまで釣り人が判断する「優しさ」であり、自己評価の「優しさ」となります。

ここから、また話題は変化していきます。

 

優しさは他人による評価だとすると、受け手が評価しない自己評価の優しさとはどういうことでしょうか。

それは受け手にとって「良い」ということを「想像して」、そこまでということになります。ということはあくまで送り手にとっての「想像する『良さ』」になります。

 

「地球にやさしい」「環境にやさしい」という例が出てきましたが、これなんかも自己評価と考えられますね。

これは「良い」というのが、常に「何にとって良いのか」を考える必要があるように、「優しい」に関しても、受け手にとっての真の「良さ」になっているかどうかは、少々くせものであるようにも感じました。

 

◆優しさと文化

「優しさの基準は、当人同士の関係だけでなく、世間的な基準にも引っ張られていないか。」

という意見がありました。

これは優しさが、文化、時代や習慣の影響を受けているのでは、ということだろうと思います。

確かに、今回哲学カフェとして掘り下げた「優しさ」とは別に、漠然とした優しさのイメージが私たちそれぞれの中には存在しています。

 

確かに、「優しいおかあさん」「優しい先生」「優しい上司」といっても、時代・文化によって具体的なイメージは異なるのではないでしょうか。

 

◆優しさと上下関係

「何とかして『あげる』という気持ちには、上からの目線を感じる」

という意見がありました。

ここから、「高齢と見える方が席を譲られて、『年寄り扱いするな』と言われる」とか、「寄付を受けると、相手に優位に立たれた気持ちになる」とか、そういった意見が出てきました。

 

これは、贈与論だとか、支援の問題だとかで聞くトピックになってくるようで、これも興味深い展開になりました。

 

◆優しさと支払うコスト

「相手に『わざわざしてもらったこと』が多いほうが、優しいと感じる」という意見がありました。

わざわざ自分のために時間を割いてくれた、遠くから駆けつけてくれた、、。

相手が支払ってくれた、差し出してくれた「コスト」と言えるものに対して、「優しさ」を感じるというのはあると思います。

 

小説「塩狩峠」の中で、「自分の一番大切なものを差し出せる人」という表現があったのを思い出しました。

 

しかし、それに対して、「あまりそのコストが大きければ、受け手は逆に重荷に感じることもある」という意見もありました。

「親切が重い」というやつでしょうか。上記の贈与論と重ねて考えてもいいかもしれないです。

 

◆終わりです。

哲学カフェは2時間が来たら終わりです。話がまとまっていなくても終わります。残りは個々のお土産にもなります。

 

今回は「優しさ」という、身近でありながらとらえどころがなく、考えられる範囲も広いので、難しいかと思いましたが、あっという間の2時間だったように感じました。

それぞれのメンバーが協力し合い、いろんな意見が出てきて、面白い進行になり中身も充実していた回だったと思いました。

 

以上、オンライン哲学カフェ「優しさ」のレポートを終わりたいと思います。

ありがとうございました。

 

では、また!