<他人の行為を見て「恥ずかしい」とはどういうことか>
おはようございます!ちくわです。
読書・読書会・哲学カフェが好きです。
この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。
私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。
今日は前回の続きで
「恥ずかしい」
について書いていきたいと思います。
前回の内容はこちら。
◆電車での化粧について
「『電車で化粧をする』行為は、している本人が恥ずかしいと思っていなくて、周りの人が恥ずかしいと思っている。この構図はどういうことか?」
という問いがあって、ここからまた新しい「恥ずかしさ」の検討に入っていきます。
「そういう行為を見かけて、恥ずかしい気持ちになる」という例が、他にも出てきます。
・高速道路で車を停めておしっこをしている人
・公園でイチャついている人
私個人的には、そういうのを見ても、その人のことを「恥ずかしい『行為』をしている人だなぁ」とは思うが、自分が「恥ずかしい『気持ち』」にはならないと思うのですが、そうではなく、自分も「恥ずかしい『気持ち』」になってしまう人もいるんですね。
その辺は共感力の違いということもあるのでしょうが、もう少し時間をかけて話していきます。
自分も「恥ずかしい『気持ち』」になってしまう場合は、その「恥ずかしい『行為』」をしたのが、自分の子どもだった場合、親だった場合はあるかなぁとは思いました。
何故かと言うと、自分の身内であるからです。身内であるから、自分も迷惑をかけている気持ちになります。
海外に行って、知り合いではないが、日本人が「恥ずかしい『行為』」をしていたら、自分はどうか、という意見も出てきました。
そこには、自分は身内であるかどうか、が関係していて、もし自分が身内でない場合は、その人は「自分と同類ではない」と思おうとする反応が、ここにおける「恥ずかしい」にあたるのでは、という意見がありました。
◆年を取ると、恥ずかしい気持ちがなくなっていくのは何故?
最後のほうに、こんな問いが出てきました。
「年を取ると恥じらいがなくなる」というのはよく聞きます。
これに対しては、いろいろ興味深い仮説が出てきました。
・周囲の人が、そんなに自分に関心をもっていないことに気付いていく
・恥ずかしい行為をしても、思ったほど周囲は反応しないことに気付いていく
・自分のことに集中していくようになり、周囲が動かということへ、関心が薄らぐ
ここから、
自分が恥ずかしいと思っていても、周囲から見ると恥ずかしいと思っていないことはたくさんある、ということ、
また、公共の価値観である「恥ずかしい」と、自分の「恥ずかしい」がせめぎ合っていることがある、ということもわかります。
また、恥ずかしいは、その人との将来の関係性が変化すること、「その人の中の自分のイメージが崩れる」といったことが生じるということから考えると、年を取るとある程度将来を気にしないのでは、という考察もできます。
◆終わりです。
哲学カフェは2時間が来たら終わりです。話がまとまっていなくても終わります。残りは個々のお土産にもなります。
この日は人数が実質4人ぐらいで話していたため、1つの話題を時間をかけてじっくりと検討していったように感じました。
このテーマも、話題の尽きないテーマであり、また、なかなかわかりにくい言葉だったため、取り組み甲斐がありました。楽しかったです。
以上で、今回のオンライン哲学カフェ「恥ずかしい」のレポートを終わりたいと思います。ありがとうございました。
では、また!