ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第81回「恥ずかしい」①

<あるべき姿から外れたときの感情>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)

今回は、第81回開催になります。

 

前回の第80回開催の記事はこちらになります。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。

 

◆「Zoom」を使っています

今回も、「Zoom」を使用。

「Zoom」はすっかりおなじみですがとても使いやすいオンライン会議アプリです。

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

 

◆この日のテーマ

この日の参加者は6名(「聞き専」含む)。時間は2時間です。

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

今回は、いつも通りひじき氏が進行役、私ちくわは書記役を担当しました。

 

この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた

 「恥ずかしい」

です。

 

「恥ずかしい」ってどんな感情なのでしょう。

なぜ、恥ずかしいと思うのでしょうか。

恥ずかしさは日常生活にどう関わっているのでしょうか。

親として恥ずかしい。同じ国民として恥ずかしい、などと言いますが、文化との関係もあるのでしょうか。

 

では、哲学カフェ、スタートします。

 

◆「恥ずかしい」の具体例

まず、いつもの通り具体例から入っていきます。

・裸を見られる

・ミスをする(忘れ物、野球のエラー)

・エッチな本が親に見つかる

・飲みつぶれる

・おねしょする

・すっぴんを見られる(主に女性)

・人前で演技をさせられた

・恋愛の告白

 

身近なことだけあって、たくさん具体例が出てきます。

私たちは、恥の多い日々を過ごしています(笑)。

 

これらの共通点はどこでしょうか。

普段、他人に見せないものを見られてしまう、隠しているものが見つかってしまう。

 

もう少し、抽象度を上げて、

「あるべき姿、良いとされている状態から、外れたところを見せたときに起こる感情」

という言い換えがされました。

 

◆裸はどうして恥ずかしいのか

「好きな人には、どうして裸を見せられるのか?」という問いが出てきました。

 

裸を見られるのは恥ずかしい、という例はわかりやすいので、ここで色んな話がでてきました。

好きな人の前で裸になれるのは、恥ずかしくないのとは違って、やっぱり恥ずかしさはあるようにも思いますが。

 

すっぴんのまま外出、パジャマで外出、というのも同じかもしれないですが、人は「見られもいい状態」「見られたら恥ずかしい状態」というのがあるようです。

それはフォーマルな空間、公共空間、家族だけの空間、という場所で違う。

 

それは上記のように、「あるべき姿、良いとされている」服装が存在し、それは、文化的なものと密接に関わってくるように思います。

 

「電車に乗り込んで、もし、乗っている人が全員裸だっら、あなたは脱ぐのか?」

という、思考実験的な意見がありました。

「自分は脱ぐだろう」という意見と、「それでも脱げない」という両方の意見がありました。

 

ここから、銭湯やヌーディストビーチのパターンも考察されましたが、やはり「人前で裸になる」という行為と「恥ずかしい」は、自分にしっかり結びついており抵抗はあるが、周りのみんなが裸であれば、裸になることができる、ということがわかります。

つまり、「自分が恥ずかしいと思う気持ち」と、「周りとの対比で恥ずかしいと感じる気持ち」の2つがせめぎ合っている構図が見えてきたのは収穫でしたね。

 

公共と自分の感覚のせめぎ合いというところから、さらに、直近のマスクの騒動(着ける、外す)も連想されていきます。

 

◆電車での化粧について

「『電車で化粧をする』行為は、している本人が恥ずかしいと思っていなくて、周りの人が恥ずかしいと思っている。この構図はどういうことか?」

という問いがあって、ここからまた新しい「恥ずかしさ」の検討に入っていきます。

 

哲学カフェはまだまだ続きますが、長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また!