みんなの日常哲学カフェ ~哲学カフェとか読書とか

哲学カフェの記録を中心に、読書記事も書いています

旧:ちくわのぴょんぴょん読書日記

オンライン哲学カフェ第82回「無駄」②

<ひとつの物事に対する複数の評価軸について>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

今日は前回の続きで

「無駄」

について書いていきたいと思います。

 

前回の内容はこちら。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆プレゼントを無駄だという人

「もらったプレゼントに対し、『お金の無駄』だという人がいる」

という意見がありました。

 

ここからいくつかの意見があり「無駄」についていくつかのわかったことがありました。

まずは、無駄は評価であるとすると、「何に対して」という評価軸があるということ。

 

ある面から見て「無駄」であるけれど、別の面から見ると「無駄ではない」というように物事には複数の評価軸が存在し、またそれを総合的に評価しているということ。

 

このプレゼントの例で言うと、その人のことを考えながらプレゼント選びにかけた時間や、もし手作りであれば作った時間などの「プロセスに対する評価」(感謝とか)と、

もらった物に対してそれは自分が好きなものであるとか、価値を持つものであるという「結果に対する評価」のふたつがあって、

プレゼントをあげる側はプロセスを大事にしていて、もらう側は結果を大事にしていてその優先度が食い違ったということ。

 

また別の意見では、その評価軸がその人にとって切実なものであるか、による、というのがありました。

 

「長時間並んで名物を買う人は時間の無駄?」という例が出てきましたが、

これも、その人にとっては時間の浪費よりもそれを手に入れることの価値が勝っているということが言えそうです。

 

◆無駄を省いた先に

私たちは日々、とかく無駄を省くことに注力しています。

「その無駄を排除した先には何があるのだろう?」という問いがありました。

 

ミニマリストの例が出てきました。

彼らが言う、「モノを減らした時に得られた豊かさ」というのはどういうことでしょうか。

 

彼らが最も大切にしている価値観は、「今、ここ、を大切に過ごす」ということであり、それを妨げる恐れのあるものは極力排除しようということです。

だから、今ここで過ごすこと以外のものは、「無駄」となってくるのです。

 

無駄な時間を削減して、あらたに生まれた時間で何をしているか、ということについてですが、

仕事においては、生み出された時間で別の仕事をして生産性を上げるか、残業を減らして従業員の満足度を向上させるか、ということになりますが、

プライベートにおいては、どうでしょうか。自分にとって「無駄ではないこと」に置き換えられているでしょうか。

 

徹底的に無駄を省いた先には、AIによって管理されるディストピア小説のようなことが起こるのでしょうか?という話もでてきました。

個々人にとっての「無駄」の判断軸が異なるのであれば、プライベートにおいてはディストピアのようなことは起こらないような気もしますが、、。

 

ここからさらに、「ペットを飼う」「恋人を作る」のを無駄だという気持ち、はたまた人間関係や趣味全般について、また話は広がっていくのでした。

 

◆終わりです。

哲学カフェは2時間が来たら終わりです。話がまとまっていなくても終わります。残りは個々のお土産にもなります。

 

ほかに、「無駄だとわかっていながら、それをあえて楽しむ」という例も出てきたり、「無駄」にもバリエーションがあるものだと思いました。

 

無駄というのは、余裕のある証拠だという意見もありましたが、色んな例を考えてみることで、少し正体がわかったような気がしました。

 

以上で、今回のオンライン哲学カフェ「無駄」のレポートを終わりたいと思います。ありがとうございました。

 

では、また!