ちくわのぴょんぴょん読書日記 ~読書・読書会・哲学カフェ

読書・読書会・哲学・哲学カフェが好きな人間のブログ

主に読書メモ・読書会・哲学カフェについて書いています。

オンライン哲学カフェ第82回「無駄」①

<「必要十分」から逸脱して使用した資源>

 

おはようございます!ちくわです。

読書・読書会・哲学カフェが好きです。

この何だかよくわからない人生に問い続け、その「わからなさ」を日々味わって楽しんでいきたいです。

 

私が参加していたある読書会の知り合い同士で始めた「哲学カフェ」。

2020年より主にオンラインの場に移し、「オンライン哲学カフェ」として楽しんでおります。(※今のところ、クローズドでの開催です)

今回は、第82回開催になります。

 

前回の第81回開催の記事はこちらになります。

chikuwamonaka.hatenablog.com

 

◆「哲学カフェ」とは?

哲学カフェとは、おもに身近なことがらについてテーマを1つ決め、それについてみんなで自由に意見を出し合う対話の場です。

「哲学」と書いていますが、ソクラテスやプラトン哲学がどうのといった話はほとんどしません。

私たちの哲学カフェで扱っているテーマは、「『普通』ってどういうこと?」だとか、「『自己責任』って結局何なの?」だとか、身近にありながら、答えがなかったり、人それぞれだったり、ふだんあえて時間をかけて考えたりあまりしない話題について、じっくり語り合っています。

そうすることによって、「あたりまえ」だったことに新しい側面を発見し、考え方・生き方に変化が起こることを楽しんでいければいいな、と考えています。

当哲学カフェはいわば「日常生活を哲学する」ことを目指しています。

 

◆「Zoom」を使っています

今回も、「Zoom」を使用。

「Zoom」はすっかりおなじみですがとても使いやすいオンライン会議アプリです。

主催が会議を「○○日の●時~●時」とスケジュール設定すると、「会議ID」が発行され、参加者はPCのZoomホームページやスマホアプリから、その「会議ID」を入力するだけで、アカウントを作る必要も無く、簡単に参加できます。

 

◆この日のテーマ

この日の参加者は7名(「聞き専」含む)。時間は2時間です。

オンラインにおいても、実際の哲学カフェのように、進行役を決め、1人ずつしゃべる方式にしています。

しかしながら一部の人しか画像を映していないため、挙手が見えないので、発言したい人は「ハイ○○です。」と言い、進行役が指名するという感じにしています。

今回は、いつも通りひじき氏が進行役、私ちくわは書記役を担当しました。

 

この日のテーマも、メンバーの推薦により選ばれた

 「無駄」

です。

 

私たちはふだん無駄の撲滅に力を注いでいますが、そもそも無駄って何でしょう?

あなたにとっての無駄とは。それはどうして無駄なのでしょうか。

無駄を省いた先に何があるのでしょう。

では、哲学カフェ、スタートします。

 

◆「無駄」の具体例

まず、いつもの通り具体例から入っていきます。

・水の無駄遣い

・シフト人員の無駄

・無駄な会議

・職人の下積みを無駄という人

・無駄死に

・時間の無駄(まわり道、成果の出なかったこと)

・紙⇒データへの入力作業

 

「無駄」という言葉はごく日常的に使う言葉なので、いくらでも出てきます。

 

無駄を考えるにあたって、「無駄ではないもの」を考えるとわかりやすかったかもしれません。

それは「必要十分」「ぴったりの量」という言い変えがありましたが、「他に代替手段がなく目いっぱい頑張った量」という言い方もできます。

 

「無駄」はその必要十分から逸脱して使用される資源(人、金、時間、、)ということがひとまずの言い換えとしては成り立ちます。

 

◆「補欠」は無駄なのか

「宇宙飛行士の交替用人員は、実際に宇宙には行かないから、無駄なのか?」

という意見がありました。

ここから、補欠や予備という話になり、そこから、「保険」の話にも広がります。

 

補欠の問題では、プレイヤー(メンバー)において感じる「無駄」も、チームやプロジェクト全体の話として考えると、無駄という発想にはなりませんので、「見る階層によって違う評価になる」という意見がありました。

 

保険においても、「無駄な部分を見直そう」という話はありますが、保険そのものを無駄と考えることはあまりありません。

 

保険というのは低確率で起こる大きな被害に対してかけるもので、事故が起こらなかったときにはかけ金は無駄になります。

しかしそれは終わってからしかわかりませんし、終わった後でもそれは「無駄」と言っていいのか、微妙な気がします。

無駄は「終わってからの評価」ということになるのでしょうか。

 

◆資源が無限だったら「無駄」と思わないのか

これは、ある意味思考実験的なものですが、面白い指摘でした。

 

ある集まりで、配ったお菓子が余った(買いすぎた)ことで無駄になったことを例にとって、余らせてしまったお菓子、またそれに使ったお金のことを無駄と呼ぶのですが、もしそんなことどうでもいいほどお金があれば、それを無駄と思わないのではないか、ということです。

 

その場合も無駄であることに変わりなく、その無駄を許容しうるかどうか、という意見もありましたが、単なる余剰と無駄の間には、ニュアンスの違いがあるように思います。

無駄という表現をすると、そこにはネガティブな評価が感じられ、その背景には限られた資源は節約しなければならないという前提があるように思います。

 

この資源が「潤沢か、切実か」という部分は後々の話にも活かされてくることになります。

 

◆プレゼントを無駄だという人

「もらったプレゼントに対し、『お金の無駄』だという人がいる」

という意見がありました。

これも興味深い指摘になり、ここからの展開で「無駄」の構造がかなりわかってきたように思います。

 

哲学カフェはまだまだ続きますが、長くなってきましたので、続きは日を改めて書いていきたいと思います。

 

では、また!